*優しい瞳の静けさも愛〜2*
王国を揺るがした数日間が嘘のように、この国にはこれまで通りの穏やかな明け暮れが戻ってきた。平穏な日々に慣れ切ってしまうと、一連の出来事は全て夢幻だったような気すらする。けれども、折りにふれ思い出すのだ。この腕からすり抜けていった深紅の瞳の持ち主のことを。ひたむきで意思の強い、でも寂しい目をした人だった。自分はあの時、白鳳のことをどれほど理解していただろう。せっかく向こうから心を開きかけてくれたのに、上っ面の同情心、上っ面の正義観で偉そうなことを言って、結局、彼を傷つけただけだった。確かに褒められたやり方ではない。でも、それはあくまでもこの国の、ひいては一般の正義に照らし合わせた場合で、彼には彼の中に絶対的な正義があり、それに従ったにすぎない。弟を元の姿に戻す。その一事のため、彼は己の全てを犠牲にして、人からの軽蔑も非難も厭わず走り続けてきた。普通の価値基準に照らし合わせれば、哀れに思えなくもない。けれども、ある意味なんて誇り高く、潔い生き方だろう。この国でのほほんと暮らしてきた自分とはまるっきり異なる価値観や正義観を持った、あるいは持たざるを得なかった人。でも、あの時はそこまで思いが至らなかった。自分の価値観だけを押しつけ、彼のこれまでなして来たことを全否定してしまった。たとえ傍からどう見えようが、自分の信念に従って、ひたすら突き進んできた日々に、安っぽい同情などされたくなかったはずだ。本心では人との絆を求めながら、それを拒絶する言動ばかり繰り返している寂しい人だとは思う。でも、少なくとも気の毒な人ではなかった。今なら分かるのに。彼の背負ってきたもの、彼が積み重ねてきた流浪の日々の重さが。手段の是非はともかく、彼はたったひとりでこの5年間を闘い抜いたのだ。
(今頃、どこでどうしているのか)
あの時、白鳳はいつかまた、と言い残して去った。だが、”いつか”とは果たしていつだろう。彼の人の終わりの見えない行程にも似た不確かな表現。もしかして気休めかもしれない。もしかして言葉遊びかもしれない。もう会えないのだろうか。せっかく彼のことが少し分かりかけて来たのに。胸の奥に芽生えた感情がこの先どう発展するとしても、全てはこれからだったのに。少なくとも彼はあの時、自分との何らかの絆を求めていた。そう思うと、いっそう砂を噛むごとき苦い悔恨が湧き起こるのだ。
(会いたい)
会って、一言謝りたい。もっと時間をかけて、いろいろ語り合いたい。あれからもう1年近く立つのに、この気持ちは薄らぐどころか大きくなる一方で、会えなくなって初めて自分の中に占める彼の存在の大きさを思い知らされた。華やかな立ち姿や蠱惑的な表情、少々皮肉めいた口調がリアルに浮かんでくる。そればかりか閨での切なげな喘ぎ声や肌の熱さまでも。
「セレスト」
「あ、カナン様」
廊下の真っ正面からやって来たにもかかわらず、声をかけられるまでカナンの存在に気付かなかった。役目に支障をきたすことこそないが、最近、会話の最中でもつい上の空になって、相手に呆れられることもしばしばだ。
「お前、近ごろ物思いに耽っていることが多いが、ひょっとして恋煩いか」
「はあぁ?」
カナンからとんでもない単語を投げつけられたので、つい素っ頓狂な声をあげてしまった。
「な、何をおっしゃるんですかっ!!そもそも”恋煩い”なんて俗な表現をいったいどこから」
「うむ、最近通販で買った占い雑誌に書いてあった」
占い雑誌というあたりが実に胡散臭い。いったいどういう雑誌を、と思ったが、知るとなおさら頭が痛くなりそうだったので、セレストはこれ以上の追及を断念した。もっとも、真の理由は雑誌の内容なんかより、カナンに指摘されたことの方が遙かに心に引っ掛かったからだが。
(・・・・・恋、ではないよな)
客観的に見て、自分が恋に悩んでいるように思えるのだろうか。あの夜、一度は睦み合ったけれども、白鳳へ抱いている気持ちは恋とは別物だと思う。けれども、何の感情かと尋ねられて、一言で表現できる上手い言葉も見つからなかった。抑えても抑えても沸き上がって来る、このほろ苦く切ない思いはいったい何だろう。
「そうだ、確かお前、週末は非番だったな」
カナンが別の話題を振ってくれたので、正直ほっとした。彼に白鳳とのことを言えない以上、この先、話の方向がどう進んでも、上手く切り返すことは不可能だ。
「はい。シェリルやエリック君も呼んで、皆で夕食を取ることになってます」
「ふっふっふ、残念ながら、実家にお前の寝床はないぞ」
「え?」
カナンにいきなり宣告され、意図が分からず、セレストは目を白黒させた。
「さっき騎士団の連中から聞いたんだ。アーヴィングが行き倒れの旅人を助けたらしい」
気さくで物怖じしないカナンは城内の人間はもちろん、機会があれば、国民誰もと分け隔てなく積極的に会話をする。ときに困ったこともしでかすご無体な次男坊だが、親しみやすく真っ直ぐな性格とバイタリティー溢れる行動力で、老若男女問わず皆に愛されていた。
「親父が?」
「うむ。それで入院させるのも不憫だと、家でその病人の世話をしているらしい」
それで合点が行った。病人を休ませるのに今は空室の自分の部屋を使っているに違いない。時には迷惑レベルの頑固者ではあるが、父アドルフの情に厚いところを知り尽くしているセレストからすれば、その措置はうなずけるものだった。
「そんな事情なら当然ですよ。俺が親父でもそうしたでしょう」
「うん、僕でもそうするな」
屈託無くにこにこ笑うカナン。成長途上の微妙な年齢のせいか、その表情によって妙に幼く感じるときと大人びて見えるときの落差が激しい。
「それにしても、カナン様、情報がお早いですね」
「えっへん、そうだろう。なにしろ将来ルーシャス様をしのぐ冒険者を目指す身としては、情報収集能力も鍛えておかなくてはな」
「しっ。そんなことを大声で堂々と言うものではありません」
この第二王子が冒険者になるため、国を出立する決意を固めているのは、二人の間だけの秘密だ。父である国王はまだしも、兄のリグナム王子にでも聞かれたら大変なことになる。いずれははっきり意思表示をするときが来るとしても、今はまだ、それを切り出す時期ではない。
「なるほど。そういえば、トップシークレットだったな」
「そうですよ。発言には十分お気をつけていただかないと」
カナンに念押ししながらも、いつしかセレストの瞳にはいるはずのない紅のシルエットが映っていた。旅の空で元気にしているだろうか。心に憂いや惑いを抱えたりしていないだろうか。ひと時でいいから、会って話をしたいのに。
重苦しくうっすらと開かれた瞳が最初に捕らえたのは見知らぬ天井。
(ここは・・・・・?)
自分が気を失う前の弟の行動を思い出し、慌てて視線を泳がせたが、スイは自分の肩先ですやすやと寝息を立てていた。
(良かった・・・・・)
ほっと一息ついて、心置きなく状況把握に努める。どうやら自分は病に倒れ、この家に運ばれたらしい。何の変哲もない民家の一室。質素ではあるがこざっぱりした雰囲気の良い部屋が、家人の健やかな暮らしを想像させる。しかし、この国の住人の人の良さは筋金入りのようだ。素性も知れぬ自分みたいな人間をあっさり受け容れてくれるなんて。
(知らない人間を中に入れて、なにか良からぬことが起こるとか考えないのかな)
たとえば室内に金目のモノがあれば、容赦なく奪い去る。その程度のことは息をするようにしてのけるのに。もっとも、部屋をざっと見る限り、金になりそうな物品はなにひとつなかった。お世辞にも裕福とは言えない経済状態。にもかかわらず、未知の旅人を躊躇いなく連れ帰ってくれたのか。日常はひたすら闇で暗躍していても、この心だって木石で出来ているわけではない。いや、そんな身だからこそ、めったに味わえない他人の善意は身に染みるし、心底嬉しいものだ。
(でも、いつまでもここにいるわけにはいかないね)
ただでも早く立ち去ってしまいたい国なのだ。家人への感謝の気持ちを胸に秘め、白鳳はゆっくり上体を起こそうとした。が。
(・・・・・・痛ッ・・・・・・)
身体中の関節と筋肉がバラバラに崩れ落ちそうだ。頭も胃も相変わらず激痛に苛まれているし、うなじと頬の熱さから熱もあるに違いない。目覚めた瞬間はそれほど感じなかったのに、意識がはっきりしてくるに連れ、己の身をぞんざいに扱って来たツケを認識せざるを得なかった。出ていくどころか、まともに起きあがることも出来やしない。しかも、一気に身体を動かしたことで全身の軋みがさらに大きくなり、白鳳はじっとしていられず、シーツの上で四肢をバタつかせた。スイもすでに目を開けて、兄の様子を声も立てずに窺っている。
「あ、まだ動いたりしてはダメ」
不意に声がかけられた。あまりの痛みに、ドアが開かれたことにすら気付かなかった。思い通りにならない身体を持て余しながら、声のした方にどうにか半身を向けると、ほんわかした雰囲気の中年女性が立っていた。彼女は小走りでベッドまで駆け寄ると、痛みに苦しむ白鳳の背中をそっとさすってくれた。
「心配しなくても大丈夫よ。貴方は身体を治すことだけ考えていればいいの」
耳に心地よく入るメゾソプラノの声。しばらく経って、かなり落ち着いたと見たのか、彼女は布団をかけ直し、白鳳の色素のない額に掌を落とした。
「まだ熱が高いみたいね。これを飲んで」
差し出された薬草を煎じたものを、不思議なくらい素直に口にして。遠い昔、こんなことがあったかもしれない。まだ、スイが生まれる前のこと。風邪で高熱を出した自分の額に手を当ててくれたのは、まだ健在だったころの母。どうしてずっと忘れていたことを思い出したのだろう。たかが病ごときで気弱になっているのだろうか。
「私はセリカ・アーヴィング。どうか自分の家だと思って、気楽にしてくださいね」
この名字を聞いたとき、良からぬ事態を察知しなくてはいけなかったのに、痛みに思考力を根こそぎ奪われてしまった。いや、ひょっとしたら眼前の婦人の温情溢れる表情に見惚れていたせいかもしれない。十年来の知己の相手に対するごとく注がれる眼差しが胸の奥をじんわり温めていく。
(やはり心弱くなっている、な)
だらしない。こんな調子でこれからの遙かな道のりを乗り切ることが出来るものか。寄り添うスイの頭を軽く撫でながら、自分を叱咤激励する白鳳だったが、その気持ちとは裏腹に、たまにはこうして立ち止まって休んでもいいのでは、という気もしていた。スイを元に戻すためだけに、頭も身体も使えるモノは全て使って、いつだって最善(少なくとも私的には)の手を尽くして来たのだ。こんな生き方、誰にも理解されないのは承知のうえだし、して貰おうとも思わないけど、せめて自分のことは自分で認めてやりたい。たまには緩やかな時間も許してやりたい。
「身体を治すには十分な睡眠と栄養が一番よ。それでは」
ひとしきり白鳳の世話をした後、セリカは部屋を立ち去った。自分からは名乗ったけれども、こちらの素性は何一つ聞いてこない。それもまた彼女なりの心遣いなのだろう。ひとりになって、再び天井に視線を流したまま、つらつらと考える。ごく当たり前の家庭の当たり前の団欒。自分にそういうものが与えられていたら、今と少しは違う人生が待ち受けていたかもしれない。が。
{バカバカしい)
たられば、をいくら考えても詮ないだけだ。こんな無意味なことを考える自分に嫌気が差し、白鳳は寝返りを打つときつく瞳を閉ざした。
一日の殆どを眠り続けているにもかかわらず、白鳳の体調はなかなか快復しなかった。今回、件のモンスターを捕まえるのはもう無理そうだ。また大幅に予定が狂ってしまう。
(やれやれ)
出来うる限りの情報を集め、熟考して計画を練り、細心の注意を払って行動しても、世の中なかなか思い通りに行くものではない。そんなことは十分分かっているのだが、それでも予定が遂行不能になると相当落ち込む。この先、どこにどれほどのモンスターがいるのかすらはっきり把握していないのに。いつもはいい結末だけを考えることにしていても、よるべない運命を思い、不意に涙が零れることもある。でも、一番辛いのはスイなのだ。自力ではどうすることも出来ず、こんな兄に命運を託すほかない可哀相な弟。本当は自分を恨んでいるに違いない。そう思うとまたやりきれない気分になる。でも、全ては己の軽率な行動が招いたことだから、誰にも弱音は吐けないし、助けて貰うわけにもいかない。たとえ酔狂な誰かが手を差しのべてくれたとしても。
(セレスト・・・・・)
あの時、彼の手を取れば、いくばくかは楽になれただろうか。仮にそうだとしても、どうしてもその状態を潔しとしない自分が居る。自分が選んだ道なのだから、その負の部分を他人に背負わせるのは嫌なのだ。苦しいとき、誰かに寄りかかりたくならないと言ったら嘘になる。でも、いずれこの試練を成し遂げる日が来たときに、自分一人の力でやり遂げたと胸を張りたい。つまらない意地だと分かっている。その一瞬のためだけに、こんなちっぽけな意地を張り通す自分はバカだと思う。だけど、そんな自分は決して嫌いではなかった。
(ん?)
ノックの音がしたので、扉に視線を移すと、溌剌とした雰囲気の若い女性が入ってきた。そこはかとなくセレストの面影が感じられ、微かに紅の双眸が見開かれる。
「初めまして。私はこの家の娘でシェリルといいます。今日は母がどうしても手が放せないので、私が貴方の世話をさせてもらいますね」
「白鳳と申します。ご両親にはすっかり面倒をおかけしてしまって」
セリカの丁寧で行き届いた看病はもちろんのこと、アドルフも夜には必ず姿を現し、ぶっきらぼうながらも誠意のこもった励ましの言葉をかけてくれる。
「気にしないで下さい。困ったときはお互いさまだし」
見れば見るほど、顔立ちがセレストに似ている。何だか妙に胸騒ぎがした。昔からこういう不吉な予感は実によく当たるのだ。シェリルは薬の用意をしながら、白鳳に明るく笑いかけると、さらに話を続けた。
「見慣れない顔が出て来て驚いたでしょう。実は私、昨年嫁いだんです」
例の酒場の夜、セレストは妹の結婚相手の話をしていなかっただろうか。いや、この年頃の女性が嫁ぐのは不思議でも何でもない。単なる取り越し苦労だ。ちょうどセレストのことを考えていたから、余計な心配をしてしまうのだ。そうだ。そうに決まっている。
「母上は外出されたのですか?」
唐突な上に、普段なら絶対にしない類の質問だが、とにかく自分の思考をこの懸念から逸らしたかった。
「いいえ。今夜はご馳走だから、仕込みに忙しくて」
「え」
「兄が非番で戻って来るから、夫のエリックも交えて、久々に家族揃って夕食を取る予定なんです」
「お兄さんが」
”兄””非番”という二つの単語が白鳳の不安を煽った。いっそのこと、ここで貴方のお兄さんの名前は、と尋ねてしまいたいくらいに。だが、そんなアクションを待つまでもなく、真実はあっけなく、そして容赦なく明らかにされた。
「兄のセレストは近衛隊副隊長なんですけど、どうもイマイチ頼りなくて」
その名を耳にした途端、自分の熱が5度くらい跳ね上がった気がした。
(がが〜〜〜〜〜ん)
もう疑いの余地はない。なんということだ。自分が厄介になっていたのが寄りによってセレストの実家だったなんて。彼にだけは会わないよう、道筋にも細心の注意を払ったのに、こんなマヌケなことがあるだろうか。しかも程なく本人が戻って来るという。ただでも弱い部分を見せたくないのに、髪もぼさぼさの病みやつれた姿で対面なんて事態になったら最悪だ。いかなる手段を講じても逃げ出さなくては。とはいうものの、シェリルが付き添っている状態ではベッドを抜け出すわけにもいかない。じりじりする思いで逃亡の機会を窺う白鳳だったが、小一時間経過した頃、呼び鈴が数度奏でられた。
「あ、お兄ちゃん戻ってきたみたい」
ちょっと失礼、という感じで軽く会釈すると、出迎えのため、シェリルは部屋を出ていった。チャンスは今しかない。まだ熱っぽい身体でゆっくり起きあがり、枕の横でうたた寝していたスイを起こして、ふらつきながら窓の傍らまで移動した。立つのも困難なくらい衰弱した状態だと思っていたのに、非常時にはどうにかなるものだ。外を見る限り、幸い人通りはない。窓を開け放ちながら、改めて自分が休んでいた部屋を眺めてみる。目を惹く華やかな要素は何一つないけれど、清潔感溢れる感じの良い部屋。いかにも彼に相応しい空間だ。しばらくその風情にうっとりしていた白鳳だったが、扉を通して聞こえてくるざわめきを耳にして、一刻の猶予もないことを悟る。交わされるやり取りと共に複数の足音がこちらに近づいてくるのが分かった。
(もう来るっ)
むろん服も荷物も持ち出す余裕はない。名残惜しげにもう一度部屋を見渡すと、肩先の若草色の身体を優しく撫でた。
「スイ、行くよっ!!」
「きゅるり〜」
どこか脱力感漂う弟の啼き声を合図に、白鳳はパジャマのまま窓から外へ舞い降りた。
TO BE CONTINUED
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