千の夜を越えても
side R
夜もまだ明けきらず――だからといって、早朝ともいえない、夜と朝の狭間の時間。
ロックマンは、すやすやと幸せな眠りを満喫していた。
深く長く、穏やかな寝息と、同じように上下する肩、柔らかく微笑む口元は、見るものがいたら微笑を浮かべてしまうほどに、和やかだった。
彼が眠っているベッドは、ひどく大きなベッドだった。ロックマン一人では、有り余るほどに。
同じぐらいの体格の少年なら、もう二人は余裕で転がれる広さだ。
そんな大きすぎるベッドの、ほどよい硬さのマットレスに、暖かで柔らかい掛け布団。マシュマロクッションを枕代わりに。
それは、酷く平和な光景だった。
そんな穏やかな寝息だけが響く世界に、侵入者があった。寝室のドアが、ゆっくりと開けられたのだ。
入ってきた黒い影は、こそりとも音を立てず、まっすぐにロックマンの眠るベッドに足を向ける。そして、無言でロックマンの胸辺りのベッドの端に、腰を下ろした。
その重さに、ギシリ、とベッドのスプリングが軋む音がした。
それでも、ロックマンは目覚めなかった。
無骨な指が、そおっと、頬に伸びた。
ふと、何かに誘われるように、ロックマンは瞳を開けた。寝起きの、ぼやけた視界の中の、自分を見下ろす翠の瞳に、笑みがこぼれる。
「――…すまない。起こしてしまったか?」
申し訳なさそうな低い声が、耳に心地いい。
「――今、帰り?」
「ああ。まだ眠っていろ。日も昇ってはいない」
寝ぼけ眼で感じる外の光は、それでも『夜』のものではない。
「また徹夜、したの?もう明け方でしょ?」
眠気たっぷりの声になってしまったのは、仕様がない。それでも、言うべきことは、言わずにはいられない。
「あんまりムリしちゃダメだよ?ただでさえ、キミは頑張りすぎなんだから」
上の者は、下の者の規範となるべく、自らを律する必要があるという信念のヒトで。
そういうところも、彼の大好きなトコロだけど。
「上のヒトが頑張りすぎると、下のヒトも休みづらいんだよ?」
数日前に、自分の友人兼彼の部下に『お前から休むように行ってくれね?』とぼやかれたのが、ゆるゆると記憶の海から引き上げられる。
「――善処しよう」
ひそやかな笑いと、額に押し当てられる柔らかな感触。
「そーゆー時は、『わかった』でいいんだよ」
今でも、軍使用の固い口調が抜けない彼に、民間用の言い回しで訂正を入れるのも、いつものこと。
「…『わかった』から、寝ていろ。まだ早い」
大きな手が、わしわしと頭を乱暴に撫でる。正直、揺り起こされるに近い勢いだが、それでも、手加減をしてくれているのだ。
自分が、半分眠っているから。
心地いいシーツの肌触りに、意識を持っていかれそうになりながら、必死で口を開いた。
「でもでも…折角君が帰ってきたのに、僕が寝っぱなしって…」
もったいないよ、は、声にならなかった。
声にする前に、唇を柔らかく塞がれたから。
「?」
何が、触れたのだろう?と不思議に思う間もなく。
「!」
思い至ってしまった、その、感触の理由。
一瞬で頭の中が目覚めてしまう。同時にクリアになる、視界いっぱいに、彼の顔。
大好きな、精悍な男の顔。彼が困ったように口元を緩めていた。
「そんなに驚くな…というか、すまん、私が起こしてしまったな…」
「いや、あの、そのね…」
問題は、そこではないと思う。どこか、といわれても困るけれど。
時々、不意打ちのように、彼は自分の感情を露にする。
そして再び、不意のぬくもり。
眠るときのくせで、丸められた背中に添えられた手。
ベッドに腰を下ろしたまま、自分を覗き込むように身をかがめていた彼が、左手を自分に回したのだ。
「私もこれから寝る予定だ」
ベッドのスプリングが、先程より大きな音を立てた。
視界に広がる黒。
自分に急接近する確かな質量。右腕に感じる、彼の手の重さ。
ベッドの上から、肩を抱かれた。
それから数回、ぽんぽん、とあやすように軽く叩かれる。
本当に軽く、彼にしてみれば、撫でるに近い、力加減で。
「…子ども扱いは、やめてよね」
ネットナビに、外見による年齢差など、あってなきがごとしだが、大人と子供の外見差のせいか、彼はよく、自分を子ども扱いする。一緒に暮らすようになってから、出来るだけ、彼と対等でありたいと思っているロックマンにとって、それは、少しばかり、悔しい。
「そんなつもりは、ないのだが」
「じゃ、なに?」
「いとしくて、つい、な」
「〜〜〜だからねぇ…」
しれっと言ってのけられた本音に、一気に熱が顔に集中する。
きっと真っ赤になってしまった顔が恥ずかしくて、思わず広い胸に額を押し付けた。
「今日はこのまま一日中眠っていても、よいかもしれん」
低い笑い声が、耳をくすぐり、それがまた、心地いい。
さっき目覚めたと思った意識は、温かな腕の中、どこよりも安心できる場所で、急速に遠のいていった。