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啓介×中里

フラストレーション!





小説 キヨカワウグイ様









 俺には悩みがある。
 そこそこ親しくなった相手と、さらにその距離を縮めようとする場合、どうしたらよいか、ということだ。
 俺は、その人物に対して、いわゆる恋愛感情を抱いている。だが、これまでそれを、ひた隠しに隠してきた。
 何故ならその人物は、俺と同じ男で、俺の体調を管理してくれる大事な「トレーナー」でもあるからだ。下手なことをして失うようなことになれば、俺の選手生命も危うくなる。正式な専属トレーナーというわけじゃないが、「正式」じゃないからこそ、埋められるものもあるのだ。
 その彼と、どうやって今以上に仲良くなるか、ということが、俺の目下の最重要課題だ。今以上に、ということは、できれば恋人に、ということだ。
 要するに、触れたい。というか、抱きたい。俺も健康な成人男性だ。綺麗事は言わない。
 彼は俺より年上で、落ち着いている。勉強熱心で、これまで蓄積してきた知識や経験を基に俺の心身を最善の状態に保ってくれようとするのだが――いかんせん、彼と一緒にいると、俺が落ち着かない。雑念を振り払うため、トレーニングに練習にと集中していたら、皮肉にもタイムが高い水準で安定するようになったのは、余談だ。
 俺が落ち着くためには、彼と「落ち着く」のが近道なのだと、俺は判っている。判っているのだけど、ならばと簡単に実行に移せるものじゃない。
 そんなわけで、俺は、悩んでいた。

 スポーツ選手というヤツには、必ず伸び悩む時期がある。いや、スポーツに限ったことじゃない。どんな世界に生きる人間にも、その分野における己の意義を疑う時期が、必ずある。
 スランプというヤツだ。
 こいつを越えれば、また伸びる時期がくる。何度もスランプを経験すると、そういうことが判ってくるが、自分はこのまま終わっちまうんじゃないかという不安は、消えることがない。それを乗り越えるためには、スキルやフィジカルのケア以外にも、メンタル面のサポートを要することになる。
 俺、高橋啓介は当時二十四歳で、競泳選手としては最も充実したシーズンを満喫しているはずだった。
 それが、水を見るのもイヤになるなんて、誰が想像できただろう。俺自身、突然降って湧いたようなスランプに、はじめはそれだと気が付かなかったほどだった。
 タイムが伸びないだとか、レースに勝てないだとか、そんなことはよくあることだった。だが、泳ぐのが辛くなるということは、未だかつてなかったのだ。自分がどんな風に泳いでいたのか、それすら思い出せなくなっていた。
 これまで触れていたものに、触れたくなかった。
 オーバーワークのせいで腰を傷めていたが、クラブ専属のドクターに会うのもイヤだったし、トレーナー兼コーチ兼アニキである高橋涼介に相談するのも煩わしかった。
 俺自身は自棄になってるつもりなんてなかったが、アニキから見れば、そうだったのかもしれない。自分以外には任せられないと、他のトレーナーを俺に近づけさせなかった彼が、とうとう「匙を投げた」。
 今思えば、彼の選択が当時考えられた最善だったのだと理解できるのだけど、その時は少なからず、俺は見捨てられるのか、という絶望感を感じていた。
 アニキは、一時俺を己のもとから離し、他の場所へ預けることにしたのだ。
 そこは、特別有名でもなんでもない、自宅からそれほど遠くないところにある、ごく普通の接骨院だった。
 平日の昼間は、一応仕事をしているから、そこへ行くのは夕方から夜にかけてだ。土曜日なら朝イチから行こうと思えば行けるのだが、行かないことにしている。ご高齢の紳士淑女の方々に囲まれて、たいへんに窮屈な思いをしたことがあるからだ。俺は一応、競泳選手としては代表クラスで、国際大会にも出ているし、それなりの成績も残している。だけど、普通に狭い待合いで待たされる。専属というわけじゃないんだから、仕方ないんだけど。
 専属というわけじゃない、と言えば、数人いる整体師も、選べるわけではない。診察や治療に入るタイミングで、手の空いた先生がマッサージなり、矯正なりしてくれる。他人に触られるのが苦手な俺にとって、このシステムは、少々苦痛を伴うものだった。
 ただ、一人だけ、触られても平気な整体師がいた。
 スタッフの中でも若手の彼は、しかし、腕はよかった。彼のやり方が俺の体調に合うだけなのかもしれないけれど、彼に当たると、心身が共にほぐれるような心地よさまで得ることができるのだ。
 夕方は会社帰りや学校帰りらしき、どちらかというと若い世代の患者が多く、その整体師は、彼らからもよく話し掛けられていた。
 名前は、中里毅という。
 俺もアニキも髪の色素が薄く、その上塩素ばかり浴びている俺は相当に明るい茶髪と化してるのに対して、彼の髪は真っ黒で、いつもきちんとセットされている。清潔感と野暮ったさを併せ持つ見た目が親しみやすさを生んでおり、気の強そうな大きな目(これも黒味が強い)で睨まれても、威圧感を感じることはなかった。
 あまり口数が多くないのもよかった。お仕着せの会話術で間を保たせようとするマッサージ師や、美容師がいるけれど、俺は、そういうのが好きじゃない。本当にしたい話はするけど、社交辞令だとか、お世辞だとかは、言うのも聞くのも苦手なのだ。
 だから、彼が担当してくれると、その時間はとてもリラックスできる。アニキが相手でも、なかなかこうはいかない。兄弟だけあって、言わなくても通じるものがあるのはありがたいが、触れられたくないことまで勘付かれれば緊張が生まれるし、兄としての権限を発揮されると、正直鬱陶しく感じるときもある。
 さすがにたくさんの患者に接しているだけあって、中里はその辺りの距離をうまく取ってくれる。
 そんな、彼が取ってくれる心地よい距離を遠く感じるようになったのは、その接骨院に通い出してひと月ほど経った頃だった。
 その頃にはもう、俺は普通に練習できるようになっていた。腰痛もよくなっていたし、気持ちの方も、なんとなくだが、上向きになってきているような気がしていた。
 そのひと月の間に俺を担当してくれたのは、もちろん彼だけではなかったが、腰はともかく、気持ちが晴れたのは、彼と接することができたからだと、特にその根拠も考えずに思っていた。
 なんとか礼がしたい、と思った。相手はそれが仕事なのだから、そんな必要はないんだろうけど、一言礼が言いたかった。
 ――いや、違うな。本当は、仕事から離れたところで、彼に接してみたかったのだ。
 食事に、誘ってみた。接骨院の中でではなく、仕事帰りに偶然出会した乗換駅のホームでだ。たしか、木曜だったはずだ。午前診療を休んで講習会に行っていたとのことだから、午後休診の木曜だ。
 お礼に奢るから、と最初から言ったのでは承諾してくれないような気がしたから、よかったらメシでも、と誘った。彼は少しだけ逡巡して、それから、頷いてくれた。なぜ自分が誘われるのか判らないという感じは、あった。
 そのまま駅から出て、食事もアルコールも摂ることのできる手頃な店に入った。沿線に位置する接骨院に車を置いているという彼は飲まなかったが、俺は少しだけ飲んだ。弱くはないはずなのに、すぐ気分がよくなって、いろんなことを話した。会社のこと、競泳界の現状、自分の体調、成績、家族。彼のことも、いろいろ知った。もうすぐ三十になるということ、独身で、一人暮らしをしているということ、それに、競泳選手だったことがあるということ。大学へは水泳で入ったけど、限界を感じた段階で退学し、スポーツ医療の専門学校に入り直したのだと、彼は言った。その日、彼が受けに行った講習会というのは、スポーツトレーニングの講習会だった。
 帰りは、普段の降車駅から三駅手前で彼と一緒に降りた。接骨院の最寄り駅だ。店で、恐縮しながらも大人しく奢られてくれた彼が、俺の家まで車で送ると言ってくれたからだ。駅からバスに乗り継がねばならない俺は、その申し出をありがたく受けた。
 短い時間でもいいから、二人きりになりたかったのも、ある。
 俺は、俺自身に関して、鈍い方じゃない。この時にはもう、彼に対して抱いている感情が、通常同性に対して抱かれるはずのないものだということに、気づいていた。

 問題は、彼にとって俺という存在は、患者で友人という範囲を出ないものである、ということだ。そんなことは、接していれば判る。実は一緒に食事をしたとき、俺と同じ競泳選手だったことがあると聞いて、それじゃ「専属」になってよ、と冗談めかして言ってみた。正式なものではなく、あの接骨院で治療を受けるときは、という意味でだ。すると彼は、時間さえ大丈夫なら、と応えたのだ。診察の順番を後回しにしてもいいなら、自分が施術するということだった。
 まさかそんなお願いが通るとも思っていなかった俺は、待つ待つ待つ、と三回頷いて、呆れられた。
 その後、週三回、練習帰りに彼がいる接骨院へと通い、彼のマッサージを受けるというリズムを保っている。
「ちょっと入れ込みすぎじゃないかな。筋肉が硬くなりかけてる」
 施術台に俯せになった俺の、背中から腰にかけてを押しながら、中里が言った。彼のマッサージは心地よいが、彼に触れられていると思うと落ち着かなくなるので、いつも必死で意識を他のところへ散らしている俺は、毎度反応が遅れる。
「もしもし高橋さん、聞こえてます?」
「あ?ああっ、なにっ?」
「あ、ちょっ、動くなって」
 おかげで毎度こんなやりとりになるから、院長先生(アニキが紹介してくれたのは、ホントはこっちの先生だ)や他の整体師さんも、後片づけをしながら苦笑している。
 この日は、クラブのカウンセラーとの面談があって遅くなり、院に到着した時、すでに他の患者はいなかった。本来の診療受付時間は過ぎていたが、中里に電話をしたら「待ってる」と言ってくれたので、こうして俺は診てもらえている。
「お前、腰痛やってんだから、もう少し気を付けた方がいいよ。癖になっちまうだろ」
 他の患者がいないと、中里の言葉は良い感じに砕けてくる。二人になると、呼び方も「高橋さん」から「啓介」に変わる。これは無理矢理だ。俺が、そう呼んでくれと頼んだのだ。アニキと一緒にいることが多い俺は、区別するため、普段から下の名前で呼ばれることがほとんどだが、ここでは「高橋さん」で差し支えない。けれど、慣れてるから、という無理矢理な理由で、彼に「啓介」と呼ばせているのだった。
 俺はと言えば、彼を「中里」と呼び捨てることもできず、まして「毅」だなんて呼べるはずもなく、「中里さん」と呼んでいる。他の整体師のことは「先生」と呼べるのだけど、彼を「先生」と呼ばないのは、年齢が近いこともあるが、患者と整体師というだけの関係じゃないんだと、主張したいからかもしれない。
「中里先生、戸締まり消灯、頼んでいいかな」
 院長先生が、俺の枕元まで来てそう言った。片付けの終わったスタッフが、「お先に」と言い残して、三々五々、帰っていったあとだ。
 中里の手が止まる。俺の背に触れたまま。
「もちろんです。すみません、こいつのワガママ聞いてもらって」
 「こいつの」というところで、ぺちりと頭をはたかれた。
「いやいや、時間外料金はしっかり頂くからいいんだが……先生には残ってもらって悪いね」
「いえ、どっちみち明日は朝イチで出てくる予定ですし、ついでに鍵、預からせていただきます」
 院長先生は、「悪いね」と繰り返して、施術室から出て行った。中里は、受け取った鍵束らしきものを、白衣(とは言っても、医者が着てるような長いやつじゃない)のポケットに落とした。静かになった部屋に、かちゃりという音が、やけに大きく響いた。
 中里の手が、再びリズムよく俺の背筋を押していく。気持ちがいい。
 思いがけず二人きりになれて、いつもは黙ったまま施術される俺も、つい口が軽くなる。
「明日、朝早いの?」
「まあね。ちょっとデリケートな患者さんだから」
 朝、玄関の解錠をするのが当番制なのだろう、くらいの認識で尋ねたら、そんな応えが返ってきて、俄かに俺は穏やかじゃなくなった。そんなのまで彼には伝わってしまうのだろう、「力抜いて」と短く注意される。
「……時間外の上に指名かよ。ワガママだな」
「お前が言うなよ」
 くすりと笑う気配。患者扱いならまだしも、ガキ扱いされてるみたいで、少しだけむかつく。これ以上喋ったら彼を怒らせそうだったので、俺はいつもの通り、黙った。
 中里が移動する音と、窓の外からは通り過ぎる自動車の音。それくらいしか響かなくなった部屋は、否応なしに二人きりであることを意識させる。中里が、俺に触れている。意識してはいけないことを、意識してしまう。
 やがて彼は手を止め、「終了」と俺の肩を軽く叩いた。一通りの手順はこなしていたが、いつもより短い気がするな、と思っていたら案の定。
「なんか変な力入ってるぞ。そのまま揉んでもよくねえから、今日はこのへんでヤメだ」
 どうやら雑念を気取られたらしい。
 背中に被せられていたバスタオルを剥がされた俺は、仕方なく台の上に起きあがり、ついで、床に足を下ろした。どこか痛いところがあるわけじゃないけど、ここへ来ると、自然と体を気遣う動きをしている。そういう雰囲気が、ここにはあった。
「どんな患者なの?」
 荷物置きの籠からジャージの上着を取り出し(ジャージ通勤を許されている。スーツは会社に置いてあるのだ)、袖を通しながら、それとなく訊いてみる。気になることを放置しておくと、後々、ためにならない。
 ちらりと様子を窺うと、ちょっと困ったような顔をした中里と目が合った。
「……言えないようなヤツ?」
「どういう意味だよ、それ」
 俺が、誰も聞いていないのに声を潜めると、彼は思わずといった風に小さく吹き出した。そして、「啓介ならいいか」と独り言のように呟き、「サッカー選手」とだけ、答えてくれた。
「プロ?どこのヤツ?」
「それは秘密。お前もスポーツでメシ食ってんなら、わかるだろ?」
 俺はプロじゃないから、厳密にはそれでメシ食ってるわけじゃないけど、言いたいことは理解できる。この世界を生き残っていくためには、ライバルの故障もチャンスにしていかなきゃならない。逆に言えば、ライバルに弱みを見せることはできない。そういうことだ。
「何度か診てんの?」
「ああ。いつもは寮までお邪魔してるんだけど、外に出たいんだって。お前と同じだな」
 確かに同じだ。思うようにいかないときは、外の空気が吸いたくなる。だけど、俺の耳が捕まえたのは、そんなところじゃなかった。
「寮?そいつの部屋でってこと?」
「そりゃそうだ。なんかおかしいか?」
 いや、おかしくない。おかしくはないけど――納得いかない。けれど、その理由を説明するわけにもいかない俺は、首を横に振るしかない。
 中里は、そんな俺の懊悩をよそに、「さあ帰るか」と一日の終わりに相応しい疲労感と充実感の混じった一言を落とし、肩をぐるりと回した。
「今日は俺が揉んでやろうか?」
 その思いつきは、唐突だった。
 患者の疲労は除いてやっても、自分の疲れはとれないはずで、その証拠に俺は、ごくたまにだが、アニキの肩や腰を揉まされることもある。とは言っても、ガキの肩たたきに毛が生えた程度のものだ。多少の凝りがほぐれるくらいで、間違っても傷害が生じるまでのことはしない。兄にもそう言われている。
 しかし中里は、そんな事情など知らないから、露骨にイヤそうな顔をした。
「……素人にされるのは怖いんだが」
「アニキに、やっていい範囲は教えてもらってるし、アニキ相手に実践もしてるから、大丈夫だぜ」
 俺の兄が高橋涼介で、ここの院長先生の知り合いだってことは、中里も知っている。「そうか」と一応の理解を示しつつも、しばらく辞退の意を表明していた彼を、俺は少々強引に施術台に座らせた。
「ほら、横になれよ」
「しようがねえな……ちょっとでいいからな」
 俺に肩を押され、嫌々俯せになった彼は、往生際悪く顔まで伏せることをしなかった。俺の様子が気になるんだろう。本当はあんまり筋によくないらしいけど、仕方ない。
 俺は、目の前に横たわる背中に触れた。まずは右の肩甲骨の内側を、指と掌全体を使って、肩まで撫でる。力は入れない。ほんと、撫でるだけだ。それだけでも十分血流はよくなるんだそうだ。軽く、リズミカルに、何度も撫でてやる。
「あ、悪くない」
 意外そうにそれを認めた中里に、「だろ?」と返した俺は、左側にも同じ事をした。
「今でも泳いでんの?」
 そうやって触れた彼の筋肉は、こんな仕事のせいかもしれないけど、しなやかで、きれいだった。見なくても判る。
「たまにな。水泳はいいよな。生涯スポーツだ」
「そう、ジジイになってもやれる」
 彼が笑った。筋肉が震える。
 これヤベエ、と思ったのは、さする手を腰まで下ろした時だった。
 細い。
 女の子のウエストとは当然違うけど、よく引き締まっているのが服の上からでも感じられる。
「……中里さん、あんま大きくねえよな。身長いくつ?」
 黙っていたらどんどん変なこと考えそうで、そう訊いた。
「一七〇ちょい。お前はいくつだ?」
「一八二」
「……狡いよな、俺がお前と同じ力で飛び込んでも、お前は俺の十センチ先に行ってんだぜ」
 中里がまた、小さく笑う。腰が震える。ますますヤベエ。
 もしかして、そういう理由もあって競泳止めたのか。なんだかんだいって体格差を埋めるってのは、もの凄い努力と、そして才能が必要だ。成長が止まり、タイムの伸びが止まった時点で、見切りをつけたのかもしれない。ああ、なんだか可哀想なこと訊いちまったかも。なんてことを考えていないと、俺もカワイソウなことになりそうだ。
 俺は結局、黙ってしまった。彼も、それを特に不審には思わなかったみたいで、大人しく俺の拙いマッサージを受けていた。
 長いんだか短いんだか判らない時間が過ぎて、俺は彼の体から離れた。触れていた手を引く。離れがたく思うと同時に、ほっとしてもいた。
「終わったぜ、中里さん」
 うっかりすると声が震えてしまいそうだったが、それはなんとか堪えた。相当な労力を用いての呼びかけに、しかし、中里は応えなかった。
「中里さん?」
 彼が顔を向けている方へ回り込み、覗くと、そこにはちょっと間抜けな寝顔があった。どうりで静かなわけだ。やっぱり疲れてんだな。
 起こそうか起こすまいか迷いながら、俺はその寝顔を鑑賞した。
 肌は年齢相応だけど、どちらかというと色白だ。室内の仕事だから日に焼けることもないのだろう。眉が濃いとは思っていたが、こうして目を閉じていると、睫の方が気になった。長くはないが、濃い。目が大きく見える一因にもなっていそうだ。鼻筋はしっかりしていて、その下は、唇だ。どちらかというと、厚めの唇。眠っているせいか、薄く開き気味になっている唇。下になっている方の端に、ヨダレが溜まってる。だらしねえな、と思うより先に、俺は――……
「……っ!」
 その瞬間、弾かれたように飛び下がっていた。
 俺は今、何をした?
 自分の唇を、手の甲で拭う。少し濡れた。彼のヨダレだ。
 俺は彼に、キスをしてしまった。
 ふっくらとした感触が、残っている。それを払拭するように、何度も手の甲で拭った。残しちゃいけない感触だ。
 唇に痛みを感じるくらいになってやっと拭くのをやめ、俺は力無く隣の台に腰を下ろした。
 小さく軋んだ音に、中里が目を覚ます。黒々とした瞳が、うたたねの余韻を漂わせながら、俺を捉えた。その目もヤバイって。というかもう、今の俺には彼の全部がヤバイ。
「悪い……寝てた」
 そう詫びる掠れた声も。
「送っていこうか?時間があるなら、メシでも」
 起きあがった彼の体。さっきまで触れていたラインを思い出してしまう。
「いや、いい。電車で帰る」
「そうか?」
 美味しい彼のお誘いを断り、手早く会計をしてもらって、俺は逃げるように院を出た。
 顔が熱い。たぶん、赤くなっているだろうが、彼は気づかなかっただろうか。煩いほど唸っていた心臓に、気づかれなかっただろうか。
 駅までは、ゆっくり歩いて五分だ。
 その五分でも、激しくなった動悸は収まってくれなかった。






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