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 それまで、ぼんやりとしか想像できなかった彼の裸体が、俄然リアルになってきて、俺は夢でも現実でも、その誘惑との闘いに苦しむことになった。
 想像の中の彼は、思い切り恥ずかしいカッコをさせても大胆に振る舞うこともあるし、裸にするだけで泣いてしまいそうなほど恥じらうこともある。どちらの彼にも、昂奮した。キスの感触とか、腰を掴んだときの感じとかは、特にリアルだった。実際にしているのだから、リアルで当たり前だった。
 でも、抱くことは、できない。当然だ。彼にそれを乞うことなんてできるはずがない。
 そろそろ自分だけでその欲求と闘うのに無理を感じ始めた時、アニキにオーバーワークを指摘された。普段から練習に入れ込み過ぎるきらいのある俺は、そういうところに精神状態が現れやすい。気になることでもあるのか、とも訊かれた。あるにはあるが、いくら相手がアニキでも、相談するわけにはいかなかった。
 やめときゃいいのに、それでも彼のもとへ治療に通ってしまう。男心の悲しさというヤツだ。
 その日もたしか、受付終了ぎりぎりで、俺の順番が回ってきたときには、他の患者は会計を済ませて帰るだけ、という状況だった。
 先日のように、俺に施術する中里をよそに、スタッフたちは帰り支度を始める。
 一番に支度を済ませた女性(受付にいる事務のおばさんだ)が、俺の枕元によってきて「高橋さん、お大事にね」といつもの挨拶をし、それから中里に「こないだの件、考えてくれた?」と続けた。こないだの件ってなんだ?
 中里は、「うーん」とわざとらしく唸る。
「なかなか時間がないんですよねー……」
「休みの日なんかは、何してるのよ」
「寝てますね。それこそ一日中」
「それ、時間がないって言わないわよ」
 おばさんは、耳の遠いご高齢の方々と話す時の癖なのか、やたらと大きな声で話し、笑った。
「なんなら写真、借りてきてあげるし」
「いいですよ。そういうのやっちゃうと、断れないような感じになるでしょ」
「なに、最初から断るつもりでいるの?」
「だから、会わないって言ってるじゃないですか」
 中里は、困り笑いを浮かべているようだ。俯せになってる俺からは見えないが、なんとなく判る。おばさんの相手をしていても、中里のマッサージはよどみがない。さすがだな、と思う。
「いいじゃない、会ってみるだけでも」
 しかしおばさんも、なかなか引き下がらなかった。話の流れからして見合い話のようだが、どうも中里にその気はないみたいだ。俺は少し安堵する。
 だがその平穏は、おばさんの次の一言でいとも容易く破られたのだった。
「バツイチ同士、気楽な話でもしてきなさいよ」
「バツイチィィイイィ?!」
 俺は叫んで、中里の手を振り払うようにして仰向けになると、飛び起きていた。
 体を気遣うとか、他のスタッフに配慮するとか、そういうのが一つ残らず吹き飛んでいた。そういうことをすると怒るはずの中里も、俺に振り払われた手をバンザイして、呆気にとられている。
「え、なに?啓介君、知らなかったのか?」
 顔を見合わせるスタッフ連を代表し、さも意外そうにそう言ったのは、アニキの知り合いの院長先生だ。
「個人的にも親しくしているみたいだし、聞いてるかと思ってたんだが」
「……聞いてませんて、そんなこと」
 やっとのことでそれだけ応えると、俺は恨みがましく中里を見上げた。彼は、俺の視線を受けても、小さく肩を竦めるだけだった。
「わざわざ自分から言うようなことでもないだろ」
 それは、そうだ。初めて食事したとき、独身かと訊いたら、そうだと答えた。恋人はいるのかと訊いたら、いないと答えた。それはそれで真実に違いないけど、でもなんだか、騙されたような気がする。俺の勝手な思いこみだということは、十分に判ってる。だけど――。
「ま、そういうわけだから、一度くらい。ね?」
 どういうわけだか判らないが、空気を読まないおばさんは、逞しくもそう言った。
 すると中里はまた「んー」と唸って、とうとう「それじゃあ、」と応じてしまった。
「今度の日曜なら」
「あらやだ、それはまた急じゃない。明後日よ」
「次の休みは講習があるし、その次は別の約束があるから、ダメならこの話はなかったことに」
「いいわよいいわよ。じゃ、先方にもそう伝えておくからね。先生の携帯、教えちゃってもいいかしら?」
「どうぞ。寝てると気づかないかもしれないから、そのへんも伝えておいてくださいね」
「了解。それじゃお先に」
 おばさんは、本日最も重要な職務を完遂したような清々しさで、意気揚々と院を出て行った。
 台の上に、何故か正座している俺を囲むようにして、残されたスタッフは微妙な空気を醸し出している。俺の驚き方が、あんまりひどかったからだろう。
「……バツイチくらいで、そんなびっくりする?今時」
 中里よりちょっと年上の整体師が、これまたこの場にいた全員が得たであろう感想を代表して述べた。俺だって、別にバツイチってことくらいじゃ、驚かない。会社にもそんな人は普通にいるし。ただ、中里が結婚したことがあるって事実に動揺したんだ。そう、離婚経験者ということに驚いたんじゃない。
 そのへんの俺の複雑な心情も、前提になってる感情にまで言及しないと説明しきれないから、俺は「いや……そうは見えなかったから」と表現を曖昧にして言い訳した。
 スタッフ連も、俺の、苦し紛れのそんな意見には賛成だったようで、それはある、だの、患者さんが恋人だもんな、だの、勝手なことを言って、中里を困らせる。
「もう……患者さんの前でする話じゃないでしょ。戸締まりしときますから、お先にどうぞ」
 彼は、台の上で正座していた俺に再び伏臥の体勢をとらせ、施術を再開させた。怒っているのか、戸惑っているのか、いつもよりちょっとリズムが早くなっている。
 中里のその態度がスタッフの帰宅を促し、院長先生も、以前のように鍵を置いて帰っていった。
 また、二人きりだ。俺は焦る。でも、前みたいな焦りじゃない。何か言わなきゃ、とだけ思って、焦ってる。しかし、何を言えってんだ?行くな?会うな?俺にそんなことを言う権限が、彼に対して、あるか?
「……ごめんな、変なこと聞かせて」
 中里は、苦笑を交えて、謝ってきた。マッサージを施す掌や指先から、彼はなんでも感じ取ってしまう。俺の動揺が、彼に伝わっているのだ。
「いや……ちょっと、びっくりしたけど」
「あんなびっくりされると思ってなかったから、俺もびっくりした」
 リズムが、ゆっくりになってくる。俺を落ち着かせようとしているのか。それとも自分をか。
「まだ若かったから、お互いやり直せるうちに別れちまおうって、前向きにな」
「いつ頃?」
「もう四年……五年前になるかな」
「今の俺より若いくらいじゃね?」
「そうだな」
 密やかな笑いが、零れる。思い出してるのかな、元奥さんのこと。甘いようで、苦いようで、それに触れた俺は、苦しくなった。
「……子ども、とか、いんの?」
「いない。一人前になるまでは、って思ってて、そのままだ。今思うと、一人くらいいた方が、別れなくてすんだかもしれねえな」
「奥さんとは、まだ会ってる?」
「会ってない。去年、再婚したって聞いた」
「あ、そうなんだ」
 子どもはナシ、元妻は再婚済み、それだけで俺は、気分が軽くなるのを感じた。まったく現金だ。
「……お前、変なヤツだな」
 中里が、今度はおかしそうに笑った。判ってるさ、全部バレてるんだろ、指先通じて。もういい、なんとでも言え。
 ゆっくりと時間をかけて足や腕までほぐしてくれた彼と、その後、彼の車で食事に行った。車は、古い型の黒いスカイラインGT−Rで、音とか結構デカくて、いじってんな、というのがすぐ判るシロモノだ。彼にも、そういう時代があったのかもしれない。時間が遅かったこともあり、帰路沿いのファミレスに入ったのだが、駐車場に乗り入れたとき、店から出てきたと思しき若者たち(俺もまだ若いけど)の無遠慮な視線を浴びた。やっぱり、見る人が見れば判る類の車なのだろう。
 俺も一応免許と車は持ってるけど、あんまり乗らない。交通事故は、被害者になっても加害者になっても面倒だ。会社からも、禁止はされてないが、勧められてはいない。この先、中里とこうして二人になれる機会が増えてくれば、もうちょっと乗ってもいいかな、とは思う。いつも助手席というのも、なんとなく主導権握られてるみたいで、つまらない。
 例えば食事のあと、寄りたいところがあっても、黙って車を向けることができるのは、運転手だ。助手席に収まってるだけでは、まっすぐ自宅に送り届けられてしまうのがオチだ。
 この日もそうだった。
 マンション前の路上に、ハザードをつけてGT−Rが停まる。食事は楽しいが、帰宅までの短いドライブは、息苦しくなるほどの葛藤に晒される。狭い車内に二人きりで、でも、俺がどうこうすることができない状況。何か言わないと、何か伝えないと、と思っているうちに、自宅に着いてしまう。
 滑らかに路肩に寄せられた車から、俺は、なんとなく降りかねていた。ここまでの道すがら、続いていた話題はなく、黙ったままの俺をちらりと窺った中里は、少しだけ黙って待っていてくれたが、やがて、「どうかしたのか?」と痺れを切らして訊いてきた。
「忘れ物でもしたか?」
「んー……別に、そういうんじゃねえけど」
 ふうん、とまた前方に向き直り、彼はだるそうに体をシートの背から剥がすと、ステアリングに腕をかけて凭れる。しばらくそうして、黙ったままでいた。
 ハザードをたいて停まる車の傍を、後ろから来た車がのろのろと通り抜けていく。前から来た車も、面倒臭そうに擦れ違っていく。道幅はあまり広くないから、迷惑だ。これ以上はいられない、と思い、シートベルトを外したときだった。
「初めて一緒にメシ食った店、」
 前を向いたまま、中里が口を開いた。
「あそこって、ランチもやってんのか?」
 初めて一緒に入ったのは、二つの路線が交差する乗換駅近くの店だ。気取らなくて、でもそこそこ雰囲気はあって、値段も手頃だから、会社やクラブの飲み会なんかで使うこともある。
 昼は、俺は入ったことないけど、お値打ちなコースがあるとかいう話を、女性社員がしていた。そう教えてやると、中里は、また「ふうん」と言った。
「なに?」
 荷物を手に降りる体勢など取りながら、何気ない風を装って訊く。
 それに応えた中里も、特に揺れも慌てもしていなかった。
「女の人が喜びそうな店って、全然知らねえんだよ、俺」
 ごく普通に、小さな溜息すら交えてそう言った中里と、俺は、それ以上同じ空気を吸っていることができなくなった。「ああ、そう」と言い捨て、俺は礼も言わずに車を降りた。
 中里は、「おい、」と俺を呼び止めようとしたが、車から降りてくるまではしなかった。

 中里が、俺にあの店のことを訊いたのは、受付のおばさんが紹介した女性と会うためだろう。
 俺の日曜は、体調に合わせて、午前中、自主練をし、午後は休むことになっている。足が必要だから、この日は車で「出勤」した。俺がクラブのプールに車を乗り付けるなんてことは、月に一度もないから、同僚たちはこぞって何があったんだと騒ぎ立てたが、そんなのは耳に入らなかった。
 土曜日、まるまる一日かけて考えた結果が、これだ。
 相手がどんな人だとか、中里がどういう反応をするかとか、悶々としてみたところで仕方ない。知りたければ、見るしかないのだ。
 俺は、彼らのデート現場を押さえることにした。移動手段はおそらく車だろうから、俺も車に乗ってきた。そういうことだ。
 中里が、その女性を気に入れば、そして彼女がそれに見合う女性ならば、俺は彼を諦めることができるだろう。中里が彼女を気に入ることなく、この話がなかったことになれば――俺は、彼にこの気持ちを伝える。もしそれが受け入れてもらえなくても、俺はもう、こんな風に悩むことから解放されるのだ。
 どっちに転んでも、一つの前進がある。俺は、停滞が苦手だ。見出された一つの出口に向かい、俺は練習に集中した。時間が経つのは早かった。誰よりも早く自分のノルマをこなした俺は、誰よりも早くプールから上がり、「よおし!」と気合いを入れて更衣室に下がった。練習前に気合いを入れるならともかく、上がってから叫ぶヤツはいない。屋内プールの空気が一瞬妙な具合に固まったが、立ち去る俺には関係ない。
 シャワーでカルキ臭を洗い流し、いつもはジャージで帰ってしまうところを、ジーンズにTシャツを着、上からパーカーを羽織った。頭がしっかり乾いたら、帽子も被ってしまう。中里にはジャージ姿しか見せたことはないから、遠くからちょっと見ただけでは、俺だと気づかないだろう。
 正午まで、間がない。俺は駐車場へ走り、助手席にバッグを放り込んだ。そして、中里と初めて食事をしたあの店に、車を発進させた。
 向かう先は、繁華街だ。週末は人も車も多い。右折は対向車に遮られ、左折は歩行者に遮られ、やっと辿り着いた店の駐車場に空きはなく、仕方がないので通り過ぎて、見つけたコインパーキングに車を入れる。歩いて戻るには十分ほどかかった。
 先ほど通り過ぎる際にも確認したのだが、店の駐車場に、中里の車はなかった。俺と同じように、他の駐車場に止めているのかもしれない。すでに店から立ち去っている可能性もなきにしもあらずだけど、紹介された女性と食事をするなら、それなりに時間をかけるだろう。俺は、被った帽子のツバを引き下げ(怪しいとか言うな)、ガラスのドアを押した。
 店内は賑わっていて、待ちの客も何組かいる。入ってきた俺にいち早く気が付いた店員が、何名様ですか、と訊いてくる。一人です、と応えると、カウンター席ならご案内できます、と言われた。こんな入口付近にいたって、中里の姿を探すこともできない。とにかく中に入れてもらおうと、俺は店員に言われるまま、それでいいです、と応じた。
 ところどころに観葉植物の鉢植えが置いてあり、テーブルによってはそれが目隠しになっているが、俺の身長からだとだいたいは見渡せる。
 奥の方の、二人掛けのテーブルだった。
 中里は、いた。
 それが驚いたことに、俺が彼を見つけると同時に、彼が俺に向かって手を挙げて合図してきたのだ。彼の方が先に、俺に気づいていたのだとしか思えないタイミングだった。
 こういう時は、どうしたらいいんだ。
 とりあえず足を止めた俺を、店員が怪訝そうに振り返り、俺の目線の先にある中里のテーブルに気が付くと、「お待ち合わせですか」と来た。
 待ち合わせをしているのは中里で、俺じゃない。でも、どう見ても俺を呼んでいるとしか思えない彼の仕草は、俺に「はい」と言わせていた。
 市場へ引かれていく仔牛のように従順に、俺は店員についていき、とうとう中里の正面に座らされた。なんだこれはどういうことだ。混乱した俺は、「遅かったな」と笑う中里に何も言い返せない。
「まあ、メインが出てくる前でよかったよ」
 そう言う中里は、フォークでオードブルの魚介のゼリー寄せに乗っかった小エビを刺した。
 俺の前にも、同じものが置いてある。スープとサラダも、二人分ある。中里のスープボウルはもう空になっていたが、もう一つは、置かれたきりで冷め切っているようだった。
「……彼女は?」
 店員が改めて置いていったお冷やに手を着けることもできず、やっとのことで口にできたのは、その一言だった。
「いねえよ」
 俺がもの凄く頑張った一言を、彼はそう簡単に切って落とし、刺したエビを口に入れた。
「どういうことだ?振られたのか?ていうか、いつから俺に気づいてたんだ?」
 彼は口に入れたエビを咀嚼し、飲み込んで、今度はゼリー本体をフォークで切り分けながら「どうもこうも」と言う。
「ねえよ、見た通りだ。振られてもいない。お前には、店に入ってきたところから気づいてた」
「嘘。服換えてきたのに」
「服装くらいで見間違うかよ」
 俺を見ず、ゼリーを見たまま、彼は笑った。
 店内の穏やかな喧噪が、耳に戻ってくる。俺は、ままよ、とフォークを手に取った。
「食っていいの?」
「もちろん。帽子は取れよ」
 言われた通りに帽子を脱ぎ、髪に指を通して空気を含ませてから、俺は食事を開始した。実際、腹も減っている。
 冷めたスープをほとんど一気飲みし、前菜を平らげ、サラダをつつき始めた辺りでメインが出てきた。ハンバーグだった。
「魚やチキンも選べたんだけど、それでよかったよな?」
 反射的に「うん」と頷き、いや待てよ、と思い直して、あまりに普段のままな中里を見返す。俺の視線に気づいた彼は、ちょっと首を傾げた。
「つーか、なんで俺に訊くんだよ」
「お前が食うからじゃねえか」
 さも当たり前のように言うから、そうか、と納得しかけてしまう。いやいやいや、違うだろ。
「見合い、すんじゃなかったの?」
「しないよ」
 きっぱりと何の含みもなく応え、彼は笑みを深くする。なんだか面白がっているみたいだ。
「あの後、相手方から電話があってな、ごめんなさいって謝られた」
 あの後、っていうのは、金曜日に、俺を自宅まで送ってくれた後だろうか。
「……どういうこと?」
「梶本さんの勇み足だったんだよ。先方にはまだ結婚する気なんてなかったのさ」
 梶本さん、というのは、例の受付のおばさんだ。
 そんなことじゃないかと思ってた。中里はそうも言い、ナイフとフォークでハンバーグを切り始めた。俺も、それに倣う。
「前に紹介してくれた人は、わざわざ職場まで俺を見に来てくれたからな。残念ながら縁はなかったけど。今度の人は、そういうのもなかったし、俺と同じバツイチだって言うし、もしかしたら梶本さんのお節介が行きすぎてるのかも、ってな」
「なるほど……」
 バツイチはバツイチの心理が判るってことか。なんか複雑だけど、受付のおばさんが要注意人物だってことは理解した。しかしまだ、大きな疑問が残っている。
「でも、それじゃなんでここに来てるんだよ」
 ということだ。紹介された女性と会わないなら、ここへ来る必要もないだろう。中里自身が言っていたように、一日中寝てればいいんだ。予約入れてたならキャンセルすればいいし、どうしてもここで食事したいなら、他の人を誘ってもいい。一人だっていい。でもテーブルには、二人分のコースが用意されていた。
 中里は、一口大に切った挽肉の塊をフォークの先に刺し、「まずは食おうぜ」と、また笑った。今度は、どことなく誤魔化すような笑みだ。
「冷めるだろ」
「食う。食うけど、」
 俺は食い下がった。すると彼は、愛想笑いを消し、忽ち緊張に強張ったような顔をした。
「それじゃ訊くが、お前はなんでここに来たんだ?」
 そうして吐かれた問いに、俺は答えることができなかった。
 初めて見るような硬い表情から読み取れるのは、苛立ちとか怒りとか、そういうものばかりだが、ただ俺の聞き分けのなさを責めているだけのようには、見えなかった。
 絶句した俺に、彼はすぐ「すまん」と詫びて、気まずそうに眉尻を下げた。
 気まずい。だけど、なんだろう、なんだか、どきどきするんだが。彼の剥き出しの感情に、初めて触れるからだろうか。
「……試したんだ、お前を」
 彼は、自嘲するようにそれだけを言うと、あとはもう、食事を終えるまで、俺に質問を許さなかった。

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