Moon bow-1

庭に面した窓から月の光が入り込み窓枠の影を鮮やかに床に描く。
輝かしい光は美しいがその光の届かない場所を更に暗くしていた。
その暗闇の中、毅は巨大なソファーに寝そべって虚空を見つめる。
人形のように動かなかった毅が僅かに体を起こそうと動いた時
「たけちゃん」
声が掛かった。
いつの間にそこにいたのか、然が静かに側に寄る。
「遅くなってごめんね。はい。」
然が袖を捲って現れた手首に毅は顔を寄せるとゆっくりと牙を沈めていく。
痛みは全くない。
こくこくと血を飲む毅を然は嬉しそうに見つめる。
やがて満足したのか毅が口を離して流れた血を舐めている間に然の手首に開いた牙の痕は綺麗に消える。
「足りる?」
「十分だ。いつもごめんな。」
先程まで人形の様だった毅の顔に表情が戻っていた。
「しかたがないでしょ、こうしないと飲めないんだし。」
毅は分かっていることだが落ち込む。
「情けないな…」
「体質はどうしようもないよ。」
然の答えに毅ははあと溜息を吐く。
「成体になったらきっと大丈夫になるよ。」
「だと思うけど」
「大丈夫だって、オレも許容範囲広がったし、好みの血がどこにいるのか直ぐに分かるようになったよ。」
「だよなー大丈夫だよな。これ以上お前に負担掛けたくない。」
「負担なんか感じてないけど、ちょっともったいないね。」
くすくすと笑いながら然が毅の口を開けさせて人間より大きく鋭いがまだ幼い牙を見る。
「可愛い牙なのに、もう見納めかぁ」
「やっと取れる。」
「やっと大人だね。」
「もうアイツに馬鹿にさせねえ。」
「慎吾さん?」
「ちょっと先に大人になったからって馬鹿にしやがって。」
怒っている毅を然は笑う。
毅と慎吾は同世代の幼馴染だが慎吾の方がちょっとどころか随分と先に成体になった。
これは慎吾が早いわけではなく毅が遅いのだ。
後から生まれた然の方が先に成体になったくらい毅は遅い。
しかしそれは毅の中の力が強大である証拠で、成体になるのが遅いのを羨むものはいても馬鹿にするものは本来いない。
ただあまりにも周りに比べて遅いために毅は徐々に不安になっていた。
周りに言っても贅沢な悩みにしか捉えられないから毅はその不安を誰にも言わない。
だからその不安を少しでも発散できるように態と怒らせているんじゃないかな、と然は考えている。
たぶんそのことを毅も感じているから怒っても慎吾を自分から遠ざけたりしていないのだろう。
「これからは一人で外に行けるし。」
「確かに一人で出かけていいけど、変なことしないでよ。」
「変なことってなんだよ。大丈夫だって。」
楽しそうな毅を見て然は少し不安を覚えるが、まあ仕方がないなあとも思う。
成体になるまではまだ自分の力を完全に制御できず簡単なことで力の安定を欠くので『外』に一人で行ってはいけないのはこの世界のルールだ。
何かあった時の為に必ずその力を抑えられるレベルの成体が『外』に連れていく。
そうやって成体と一緒に『外』に行き、血を摂取したりついでに色々学んだりするのだが、毅の場合力が強すぎて『外』に連れて行けるレベルの成体が少ない、というか現時点で親と然と慎吾しかいないので制限が大きい。
また毅は血を直接人間から飲めないのでますます『外』に連れて行ってもらえない。
何度か挑戦したがその度に体調を崩したので、本当に飲みたいと思う美味しそうな人間に出会うまで直接飲むことを禁止されていた。
今は人間の血を飲んだ然の血を介して必要なエネルギーをもらっている。
時々慎吾からももらっている。
そんな風に直接人間の血を飲んでいないから成体になるのが遅いんじゃないか、体調を崩しても飲み続けていればそのうち慣れるんじゃないか、とも思うが確証はないため出来なかった。
他の普通のやつらなら人間の血が飲めないなんて馬鹿にされて死ぬだけだが、毅は現存する貴重な始祖直系だし、毅自身が先祖返りといわれる力と黒采瞳の持ち主だから大切にここまで育てられた。
ほとんど『外』に連れて行ってもらえないのはつまらないが全て自分の所為だと分かっているので毅は我慢していた。
だが成体になれば誰にはばかることなく『外』に行ける。
そしてきっと美味しい血を見つけられると楽しみにしていた。


暗闇の中、毅はソファーに体を預けていた。
まるで人形のように動かなかったが、するりと突然滑らかにソファーから降り明るい窓に近寄る。
ずっと一点を見つめていた毅の目に完全なる満月が映る。
毅の右手が持ち上げられ窓がカタンと揺れた。
「どこに行く気だ。」
静かに鋭く発せられた声に毅はゆっくりとそちらを向く。
闇の中、まるで熾火のように赤く目を光らせている男は毅の様子を見て舌打ちする。
血が足りていない。
成体へと転化するのに必要な血が。
今の毅は何も考えていないだろう。
ただ血を求めて『外』に出ようとしていた。
だがここに、慎吾の中に、毅に必要なものが満たされていると気付いて標的が変わった。
毅の瞳の中をちらちらと複雑な色彩の光が移ろっていく。
その瞳に捕らわれないように最初から力を使っていたのに無意味だった。
簡単に毅から遠ざかろうとする慎吾の意識はぼやけた。
近づいた毅の顔が見えなくなり首に牙の当たる感触がしても、自分達にとって命と同等の血が失われていくのを感じながらも逃げる気は起きない。
このままでは確実に死ぬと分かっているのに、あまりにも死は遠くどうでもいいものに思えた。
暗闇の中に光る綾色に支配されていた意識に暗い金色が入り込み慎吾は引っ張り出されるように意識がはっきりした。
目の前には暗く目を金色に光らせる然がいた。
「慎吾さん大丈夫?」
心配そうにしている然の腕の中に目を然の右手で覆われた毅がいた。
毅から解放されたことを理解して溜息を吐く。
「かなり飲まれた。」
「あーごめんなさい、遅くなっちゃって。大丈夫ですか?」
「いつもより必要だと思って血を飲んできたからまだ大丈夫だけどよ、こいつまだまだ足りてないだろ。」
本当は今にも倒れたい体を誤魔化して慎吾は然に聞く。
余裕があるように大切なストックの数人がしばらく使えなくなる程飲んできたのにギリギリだった。
それなのに毅にはまだまだ足りていない。
今日、この満月が出ている間に転化を終わらせなければ次の満月まで持ち越しだ。
しかし短期間ならともかく約一月の間これだけの血を毅に与え続けることは難しい。
「たぶん大丈夫ですよ。」
右手で毅の目を覆ったまま然が左腕を毅の口元に持っていく。
然の腕に噛み付いた毅が血を飲みだして直ぐに毅の変化を二人とも感じる。
姿形は変わらない。
それでも二人の目にはまるで今までの毅には何重にも紗がかかっていて、一枚ずつそれが剥がれていく様に見えた。
毅が血を飲むのを止めて牙を腕から抜いたので然は右手を離す。
現れた毅の瞳にはあの彩色はなく真っ黒だったが、ぱちりとした瞬きの睫の震えすら鮮明に脳裏に焼き付いた。
自分達を支配する者の誕生に二人の心は奮える。
しかしまだ自覚のない毅に然は普段どおりに接する。
「成体になった感想は?」
「――牙がないのは変な感じだな。」
今まで口の中に鋭く存在していた牙が短く小さくなっていることに違和感を覚える。
意識すればこの牙が鋭く伸びることは解るが不思議な感じだ。
「そうだね、慣れるまで変な感じかも。」
成体になって初めての感想に然がくすくす笑う。
「力はどんな感じ?」
「なんだろ、こんなもんかって感じ?」
毅の答えに然は笑って慎吾はやれやれと溜息を吐く。
実際のところ出来ないことはないだろう毅の力だが、今まで把握できなかった自分の力が完全にコントロールできるようになったのだから“こんなもん”と感じても仕方がないのかもしれない。
「なあ、『外』に行ってきてもいいか?」
「今から?いいけど、月が沈むまでに帰ってきてよ。あと目立たないようにね。」
「わかってるって。」
嬉しそうに毅は笑ってふわりと溶ける様に消えた。
「ついていかなくていいのか?」
「一人で『外』に行くの楽しみにしてたから、止められないよ。それに…」
ふぅと大きな息を吐いて口元を手で覆った然を見て慎吾は驚く。
いつもにこやかな然が飢えを隠し切れずに目を光らせていた。
「今のオレじゃちょっとたけちゃんについていくの無理。」
「ギリギリだったのか。」
「かなり。慎吾さんのをまず飲んでなかったらたぶん足りなかった。」
「ちゃんと飲んでこなかったのか?」
「まさか、ストック半分になっちゃったよ。」
「そんなに…」
慎吾は毅の転化に必要だった血の量にゾッとする。
「じゃあ、オレも補充しにいかないとヤバいんで。」
然は目に飢えを隠せていないがあくまでもいつも通りの態度で慎吾に軽く挨拶をすると部屋の奥に向かう。
月の光が届かない闇の中に然が消えていくのを見送って慎吾は溜息を吐いた。
自分も血を飲みに行かないとヤバイ。
窓に向かって慎吾は歩き出す。
あの兄弟は簡単に『外』に移動したが自分はそうもいかない。
毅によって外れかけていた窓を開けて月の光を直接浴びる。
一瞬にして慎吾は黒い鳥に姿を変えると飛び立った。



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