毅が成体になってから一度姿を消した月が再び丸に近づこうとしている夜だった。
今日は慎吾からバトルだとかなんだかんだと聞いていたが、車に興味の無い毅は慎吾がこんなに熱くこだわっているのは珍しいなあと思うだけだった。 しかしもしかしたら拓海も見に行くかも知れないと思いついて慎吾から聞いていた山に行ってみることにした。 夜の山に沢山の人がいて毅は驚く。 慎吾の気配を探してみるが人間と同じ様に力を隠している慎吾の気配を探すのはこの変な熱気の中少し手間取った。 話し掛けに行こうかと思ったが周りに沢山の人間が集まっているのと慎吾の気配がピリピリしていてやめた。 次に拓海の気配を探すと結構簡単に見つかった。 人に気付かれないように拓海の後ろに現れる。 「藤原。」 振り返った拓海は毅を見て一瞬息を呑んだ。 直ぐに毅だと分かったが、こんな顔だったっけ…と確かに同じ顔なのに何かが違うように感じられて戸惑う。 「あれ、分かんないか?」 「わかりますよ。ちょっと驚いたんです。」 「すまん。」 「よくオレだって分かりましたね。」 「分かるだろ、ふつー」 「おい拓海、誰だよ?」 隣にいた樹が拓海を引っ張ったので毅はそっちに視線を向ける。 「藤原の友達か?」 「そうです。今日一緒に来て…えーと、イツキ、この人は…」 毅のことをなんと説明すればいいのか拓海は分からず困る。 毎日顔は見るけど会話もないささやかなコミュニケーションをとっているだけの相手だ。 「朝の、配達の時に知り合った人で、毅さん。」 「どうも。」 「あ、どうも始めまして!拓海の親友で樹です!」 「親友か、いいなぁ」 毅は慎吾を思い出して羨ましいと思った。 「毅さんも朝配達してんですか?」 「え?」 「拓海と配達の時会ったんですよね?」 「ああ、そうだけどオレは配達してない。ただ毎日オレが、藤原が走ってるのを見に行ってるんだ。」 「へーじゃあ、毅さんも走り屋っすか?」 「違う違う。オレ運転したことすらないぜ。」 「そうなんっすか。じゃあ、免許も持ってないとか?」 「持ってない。」 「取らないんっすか?車ないと不便じゃないですか。」 「そうなのか?」 自力で移動した方が圧倒的に早い毅には樹が言う不便さが分からない。 首を傾げる毅に樹の方が驚く。 「えっ車欲しいって思ったことないっすか!?」 樹の反応で毅は自分の答えがまた人間と違うことに気付いてどう誤魔化そうか考える。 「あんまり出かけることないから…」 困り顔の毅に拓海が話を止めた。 「イツキ、初対面で毅さん困らせるなよ。」 「あっすいません。」 「いや、いいんだ。」 三人の間に沈黙が生まれる。 「それじゃあ、邪魔して悪かったな。」 「毅さんここで見るんじゃないんですか?」 「場所は決めてないんだが…」 場所どころかバトルを見に来たわけでもないのでまたしても返答が鈍る。 ここで、そうなんだ、友達が待ってるからとでも嘘が言える性格だったなら毅はあの雨の日も困ることはなかっただろう。 「だったらここでいいんじゃないですか?それにもう直ぐここまで来ますよ。」 既にヒルクライムは始まっていてスキール音は着実にゴール近くの拓海たちに近づいていた。 「じゃあ、一緒に見てていいか?」 「もちろんです。」 三人で並んで車を待つことにする。 「あ、雨だ。」 「ホントかよ。あ…ホントだ、ふってきた。」 ぽつぽつと降り始めた雨は少しずつ量が増えていく。 自然と自分に当たりそうな雨粒を消していた毅は、濡れていく拓海たちを見て気付かれる前にその力を消す。 少しずつ重たくなっていく髪や服を感じながら毅は辺りを見回す。 この雨に皆ざわめき、中止を危ぶむ声も上がるが誰もその場から動こうとしない。 毅はそれが不思議でならないが拓海たちも黙ってコーナーの入り口を見つめているから毅も何も言えず見つめる。 拓海にばかり気を取られていたが意識してみると近づいてくる車は拓海とはまた違う魅力を感じて目の前に現れるのを待つ。 「来るぞぉ!」 誰かが叫ぶ。 その場にいる全員が見つめる先に黄色い車が現れる。 車という生き物が、これこそがオレだと主張するように独自のラインを描いて目の前を駆け抜けていく。 「スゲー!この雨でアレだぜ!」 見惚れていた毅は興奮している樹の声で我に返った。 「やっぱりすげえよ、高橋啓介って」 「高橋啓介っていうのか?」 「ええっ!?知らないんっすか!?」 「うん。」 慎吾の口から出てきたことはない。 「見に来てんのに!?」 「うん。」 また墓穴を掘ってしまったが今の毅は「そっかー高橋啓介っていうのか」と少し夢心地なので気にしていない。 拓海はなんとなく面白くない気持ちになった。 確かに啓介の走りは凄かった。 それに触発されて自分も少し興奮している。 でもそんなに、そんな風にうっとりするものじゃないと思う。 感動なのかなんなのか、目がきらきらと光っている気がする。 「なー雨止まないな。下り中止じゃないよな。」 「さあ」 もやっとしている拓海は樹の質問に上手く答えられない。 「今回、下りがメインなんだぜ!中止になったらなんのために来たんだか」 「そうだけど、オレに言われてもなぁ」 憤る樹に拓海も困る。 雨足は強くなる一方で止む気配はない。 たぶんこの雨では中止になるだろうと皆思っているが、何かがあるような気がして誰も帰らずにいた。 ゴール地点の駐車場では慎吾がイライラしていた。 ナイトキッズにヒルクライムで高橋啓介に敵うやつはいないと慎吾は最初から分かっていたから上りのバトルの結果など気にしていなかった。 自分がダウンヒルで高橋啓介をぶっちぎれば良いのだ。 この妙義で慎吾は自分が負けることはないと信じていた。 既にどこに何があるのか細かく知り尽くしているこの峠ならこの程度の雨で慎吾は臆することなどない。 しかし相手はまだ慣れていないのだから、相手側からバトル延期の申し込みがあれば快く受け入れるつもりだった。 慎吾だって折角の楽しいバトルなのだからベストで勝負したいと思う。 それなのに、なんだこのバカヤローは! この雨の中、あの藤原とバトルしたいとわめいてる男に慎吾のイライラは大きくなっていく。 いっそのこと藤原も交えて三台で走ってやろうかとやけくそ気味に考えながら、どこにいると拓海の気配を探った慎吾は驚愕した。 何してんだアイツ! 拓海の直ぐそばに毅がいた。 しかも雨に濡れている。 自分がそうなるように仕向けてたならいいが、少しでも毅に害を及ぼす可能性があるものは全て徹底的に排除してきた慎吾には、毅が雨に濡れているというだけで気になる。 今すぐにでも乾かして然のところに放り投げてきたい。 先程と違うイライラが大きくなっていく。 「どうだろうか?」 「ああ?」 毅を気にして全く話を聞いていなかった慎吾はレッドサンズのリーダーを見る。 「今回のダウンヒルは来週に延期させてもらっていいだろうか?」 「ああ、かまわねえよ。」 「それで、交流戦に関係なくうちのメンバーの一人がこの妙義で今からレインバトルをしたいって言ってるんだが、許可してもらえないかな。」 「いいぜ、勝手にしろ。」 「いいのか?」 先程までケンタのことを腹立たしそうに見ていたことを涼介は把握していたので少し意外になる。 「今日はもうやる気が失せた。勝手にやってくれ。あー事故ったりとかすんなよ、迷惑だかんな。藤原は良いけどお前んところの奴は不安だな。」 「なんだとっ」 嘲笑されて怒るケンタを片手だけで制して涼介が答える。 「大丈夫だ、そこまで下手じゃないさ。」 「ならいいけどな。」 笑う慎吾の相手を止めて涼介はメンバーに拓海を呼びに行かせる。 ゴールからレッドサンズのメンバーが走ってくるので何かが始まるのかと見守っていると拓海の元にやって来た。 「涼介さんが話があるから来て欲しいそうだ。」 「えっオレ?」 「そうだ。付いて来い。」 拓海の戸惑いなどお構いなしに来た道を戻ろうとする男に拓海は樹と一度顔を見合わせて慌てて付いて行く。 「またなー」 毅が手を振るので拓海も振り返した。 拓海たちはなんで連れて行かれたのだろうかと毅は意識して拓海とその周りの声を拾う。 話を聞いているとどうやらこれから拓海が走ることになったようで、毅は嬉しくなった。 そうなるとここよりも下の方で見た方がいいかも知れないと毅は姿を消した。 人が密集している辺りがきっといいポイントに違いないと毅はその中にするりと紛れ込む。 あの秋名のハチロクがダウンヒルをするという話は直ぐに下にまで行き渡って誰もがいつ来るのかと待ちわびていた。 その中で毅も拓海の車を感じてもう直ぐ来ると道の先を見つめる。 激しい水音と共に現れたハチロクは雨の中だとは思えない、常識を超えた走りをするので見たもの全員が恐怖のような驚きを感じた。 毅は技術的なことは良くわからないので、いつもの拓海と少し違うかな?と思いながらもいつもと違う場所の拓海を見れて満足する。 まだ頭の片隅で下っていく拓海の車をトレースしながら今見た拓海に浸っていると頭を掴まれた。 「何してんだお前は!」 慎吾が掴んだところから熱が伝わって雨に濡れっぱなしだったものが全て乾いたことに気付く。 「おお、忘れてた。」 「忘れてたじゃねーよ。何してんだよお前。車に興味ないだろうが。」 「うん、ない。でも藤原が走るのは好きだ。」 「そういえば一緒にいたな。いつの間に知り合ったんだ?」 「ついこの間。今日でまだ4回しか喋ってない。」 「気になるのか?」 「だから藤原が走ってるのを見るのは好きだって。」 「あっそ。」 慎吾は思わず溜息がもれた。 確かに走っている時の藤原は変なオーラがあるもんな、と慎吾は一応納得する。 「藤原に興味あるなら、今日黄色い車で走ってたヤツは?」 「高橋啓介?結構好きだな。藤原程じゃないけど。」 「そうか。」 やっぱりまだ藤原の方が速いんだろう。 こうなると高橋涼介も毅に見せてみたいところだ、と慎吾は思ったがいきなりあのレベルに会わせるのは面白くないか、とも思いなおす。 「あ、呼ばれてら。」 いきなりいなくなった慎吾をメンバーが探しているのを感じて慎吾は山頂に戻ることにする。 交流戦があった今日は慎吾がいなければさすがに解散し難いだろう。 「お前、人間に紛れるのに雨に濡れるのはしょうがねえけど、乾かすの忘れるなよ。然が見たら心配するぞ。」 「わかった。」 毅が頷くのを確認して慎吾は山頂にまで移動した。 自分が毅に対して過保護だとわかっているが止められるものではないのだ。 翌日の拓海は毅がいることに少しほっとした。 もしかしたら今日からいないかもしれないと考えていた。 高橋啓介の方を見に行くんじゃないかと考えてしまったからだ。 今日も毅が見に来ていることに喜んでいる自分を不思議に思いながらも拓海は配達を終わらせて毅の前を通り過ぎる。 いつも通り拓海が会釈をして毅が手を振る。 その姿をミラーで確認しながら、そういえば手を振り返したのは昨日が初めてだったと思い出した。 もう一度、振り返した時のあの顔が見たいなと思った。 次の日はどうにかしてあの顔をもう一度見れないかと考えながら配達を終わらせた拓海は毅がいる場所まで下る前に黄色い車と啓介を見つけて車を止めた。 啓介は昨日ビデオで見た拓海の走りと腹が立つランエボと何か知っているらしい兄の態度と色々混じってムカムカしたので、拓海にランエボに注意しろと親切にも言いに来てやったという名目で苛立ちを発散しに秋名に来ていた。 またどこかで藤原を待ち伏せしようと上っていた啓介は一人の男がポツンと立っていることに気がついた。 何してんだアレ、と思いながら関らない方が良いだろうと男がいるよりも先の道で拓海を待つことにした。 車の中で待っていると寝てしまいそうだったので外に出て拓海が来るのを待つ。 しかし、下から先程の男が歩いてくるのが見えてウザいと思った。 たぶん拓海の走りを見に来ている車好きだとしたら、自分のことも知っているだろう。 話しかけられるのは鬱陶しいが、だからといって場所を変えるのは癪である。 どうしてやろうかと考えていると啓介に近づいてきた男は少し興奮気味に話しかけてきた。 「もしかして、一昨日妙義で走ってた人だよな?高橋啓介?」 その質問に啓介は複雑な気持ちになる。 「そうだ。」 答えると男は嬉しそうに笑った。 「やった。場所聞くの忘れてたから今度聞こうって思ってたんだ。秋名だったんだなぁ。」 啓介はますます複雑な気持ちになった。 やっぱりこの男は自分のことを知らないようだ。 「ちげえ。オレのホームは赤城。」 「えっ?だって秋名に来てるじゃないか?」 「ちょっと藤原に用事があって来たんだよ。」 「そっか、赤城なのか。あっ赤城に速い奴がいるって聞いたことあったけど高橋のことだったんだな。」 もともと苛立っていた啓介はプチリと切れそうだったが 「藤原も凄いけどお前も凄いよな!」 男の笑顔に啓介は切れ損ねた。 「お前さ、名前なんだよ?」 「毅。」 「毅はオレと藤原どっちが凄いと思った?」 「藤原。――あっ、お前もホントに他の人間と比べて凄いんだぞ。だけど今のところちょっと藤原の方が凄いっていうか…でもほら人間は成長する生き物だからそのうち藤原より凄くなる可能性あるぞ!努力が大切だ!」 啓介の質問に即答した毅は慌てて言い訳のような言葉を連ねる。 それに啓介は怒るより可笑しくなってしまった。 「そうだな、お前の言うとおり。オレは直ぐにアイツより速くなるぜ。」 何より毅の言ったことは全て本当のことだと思った啓介は自分の中の本当を返す。 虚勢でも何でもなく既に自分の中で固まっている気持ちだったから啓介の言葉は静かで熱かった。 毅は体温が僅かに上昇するような感覚を覚える。 「お前カッコイイぞ!今ならちょっと藤原より好きかもしれん!」 「だろー。」 にやりと笑った啓介にさっきの格好良さはなかったが毅は楽しくなって笑う。 笑っていると毅の耳に拓海の車のエンジン音が届いた。 「藤原が下りて来る。」 笑うのを止めて子供のような熱心さで山頂を見つめる毅に啓介は少し驚いた。 大きな目は拓海への期待でか光っているように見えた。 「お前そんなに藤原が好きか?」 「好きだ。なんというか、惹き付けられる。」 こちらに視線も寄こさずに答える毅に啓介は負けた気分になる。 毅の視界を遮るように隣に並んで啓介も拓海が下りて来るのを待った。 車を止めた拓海は啓介の影から毅が見えると胸がぎゅっとして手に不自然な力が入った。 車を降りて二人に近づく。 「どうしたんですか?」 「お前とケンタのレインバトルの時に後ろから付いてきたランエボがいただろ。そいつに注意しろよって言いに来てやったんだよ。」 「ああ、アレ…昨日会いましたよ。オレと戦うつもりはないらしいです。ハチロクなんかと戦ったらバカにされるからって。」 「なんだよそれ!」 肩を竦めるだけで他人事のように話す拓海に啓介の方が腹を立てる。 「お前そんなこと言われて黙って聞いてたのかよ!」 「腹が立ちましたよ。でもその時一緒にいた友達がエキサイトしてたから逆にオレは冷静になっちゃって」 「冷静になってんじゃねーよ!お前が馬鹿にされてんだぞ!」 「いつも言われてることですよ。ハチロクなんてって。あんたも最初は思ってたでしょう。走ってみなきゃ言ってもわかんないんだから。」 拓海の言うことに啓介は言い返せなくてもどかしい気持ちを地面にぶつけた。 毅は目の前のやり取りについていけなくて、二人の会話が切れたので拓海に質問する。 「なあ、ランエボってこの間藤原の後ろから走ってきた車か?白いやつ。」 「はい、それです。」 「それに乗ってた人間が藤原のことバカにしたのか?」 「はい。」 「それで、なんで藤原が怒んないで高橋が怒ってるんだ?」 「こいつが怒んねーからオレが怒ってんだよ!」 「そうなのか?」 「違うと思います…」 勝手にオレの所為にしないで欲しい。 「藤原は怒らないのか?」 「まあ、腹は立ちましたけど…たぶんここの下りならオレが勝つと思うんです。」 まるでグーとパーならパーが勝つと同レベルくらいの当たり前の事の様に拓海が言う。 啓介はそれに呆気に取られて毅は「それはそうだろ。」と頷いた。 「あの白い車だろ。だったら藤原の方が断然凄いもんな!」 毅の疑いのない眼差しにそこまで信じられるとなんだか恥ずかしい、と思いながら拓海は今まで不自然に入っていた力が抜けるのが分かる。 「オレの方が凄いですか?」 「もちろん!」 「そうですか…」 照れてる拓海とにこにこしている毅を見て啓介は横槍を入れる。 「さっき毅は藤原よりオレの方が好きかもって言ったけどな。」 「…そうなんですか?」 一気に凍りついた拓海に毅は気付かずににこにこしている。 「さっき一瞬だけな。」 「一瞬?」 「一瞬だけ。藤原の方が好きだぞ。」 「そうですか…」 また照れてる拓海とにこにこしている毅の図が出来上がる。 啓介はまた負けた気がして、絶対に勝つ!と何に勝つのか不明なまま燃えていた。 |