◆3

「………」
「………」

話があるような事を言われて乗り込んだFDの車内では、だが啓介との間に会話はなかなか生まれなかった。互いの間にどうしたら良いのか分からないような空気が横たわっている。
FDは踏み込んではいないが、滑らかなライン取りで的確に素早くコーナーをクリアしていく。そのドライビングに気持ちが持っていかれて、互いの間の沈黙の気まずさは直ぐに忘れてしまった。
魅惑のクルーズだ。こうして同乗走行する機会があるなどと、今まで想像したことすら無かった。
何となしに誘われて観戦しに来ただけだったが、やはり峠では色々なことが起きるものだなと、少々他人事のような心持で高橋啓介のドライビングに集中する。
コンパクトな車内で、隣でハンドルを切る啓介の、その筋肉の動きや呼吸の熱までが伝わってくる。
ドライビング的には流しているだけだが集中力を感じる。
タイヤが路面を捉える感覚が、同乗している自分にも伝わってきて、気持ちを同じくしてハンドルを心の中で切った。

クルーズはあっという間に終わり、FDがアクセルを緩めて、上りスタート地点となっている駐車場へと入った。そこにはプロDメンバーが揃っており、対戦したチームのメンバーとも会話しているようだ。
自分がFDの助手席に唐突に乗っているのを見咎められたら、変に思われるのでは無いのか、と、ちょっと気後れするような気分に襲われる。だが、そんな気分を認めるのは腹立たしいので、せめて挨拶くらいはしてやろうと、気分を引き締めた。
だが

「アニキー! タイムアタックは終わりだよな、この後何かあったりするか?」
高橋啓介は運転席側の窓を開けると、車から降りもせずに、高橋涼介によく通る声をかけた。
「いや、後は撤収するだけだが……おや?」
助手席に誰かいることに気づいた高橋涼介が車内に視線を潜らせてくる。
目が合ったような気がしたので、軽く会釈だけした。
「だったらこのままオレは帰るぜ」
「そうか、気をつけて帰れよ」
涼介は軽く笑って弟に返事を返す。

藤原やチームのメンバー達に妙な視線を送られているのを感じたが、FDはスルスルと駐車場を後にし始めた。そのまま麓に向かってしまいそうだ。そこでようやく、オレは慌てた。
「お、おい、オレは仲間の車待たねえとならねえからよ」
「妙義まで送ってってやるよ」
その高橋啓介の言葉に、目を丸くした。
「は? いや、あいつらオレを待ってるだろうし」
「だったら携帯で連絡入れとけば良いだろ 面倒だからもう、あそこまで戻らないぜ。待ってるってんなら、早く連絡してやれよ」

このまま一緒に群馬に帰るという選択肢以外は選ばせてもらえない勢いである。いきなり過ぎて、少々腹が立つ。

「いきなり何なんだ、オレは一緒に帰るなんて言ってないだろ、話があるって言うから、乗っただけだ」
「だから、その話をまだしてねえだろ………。話はあるんだよ。直ぐにどうこうできる話じゃねえし、とりあえず群馬まで付き合え」
納得いくような行かないような説明だったが、そういうことなら仕方ないかと直ぐに諦める。
「わかった」
携帯は幸いにも圏内なようで、観戦メンバーのうちの一人に連絡をとった。
「ああ、オレだ、………その、ちょっと事情があって、オレはこのまま帰るから、そっちはそっちで帰ってくれ。ああ、まあ…そうだ。妙義には出来れば顔出すぜ。ああ、気をつけろよ」
通話口のメンバーからは怪訝そうな声が聞こえてきたが、説明も上手くできないので、事務的な話だけで話を打ち切った。

通話を終えると、また車内に沈黙が満ちる。
だが、FDのロータリーサウンドは思っていたより心地良く、流れる車窓に心はすぐに奪われて、居心地の悪さはさほど感じたりはしなかった。


山を下って市街地をしばらく走ると、高速に入る。すると、高橋啓介がようやく口を開いた。
「ギャラリーって今までも来たことあんのか? Dの」
「いや、悪いが今日が初めてだ」
「………ふーん」
「こっちも週末にはバトルがあったりしたからな、観戦には来てみたいとずっと思ってはいたんだぜ」
不機嫌そうな声を出されたので、関心はあったことは伝えたかった。
「知ってるぜ、そっちの峠の話は史裕から聞いたりしてる。調子良いみてーじゃねえか」
「………まあな。………お前ほどじゃねえけどよ」
「………ふーん」

お前のお陰で調子を取り戻せた…とはなかなか言葉にはできなくて、何となく上っつらだけの会話になる。それを見透かされるような視線を一瞬送られて、心臓が跳ねた。

「で、話ってな何だ」
啓介が話しがあるということで、こういう状況になっているのを思い出して、話を向けてみる。だが
「ああ、まあ話ってのは、あるにはあるけどよ。………そうだお前、腹減ってるか?」
「は? ああ、飯食いそびれたから、腹は減ってるけどよ」
「んじゃ、途中のサービスエリアで何か食ってこうぜ。久しぶりなんだし。いつもDの帰りは腹減ってるの我慢できねーから、どっかこっかで食って帰るし」
「それはまあ、かまわねえが」
まあ確かに一年以上振りである。
しかもバトル前後に少々会話を交わした程度の間柄だ。
しかも大体がケンカ越しである。
高橋啓介からどんな話があるのか想像はできないが、何を話すにしても、多少時間をかける必要があるのかも知れない。
まあそっちの方が普通である。


途中のサービスエリアで深夜営業のレストランに入った。レストランと言っても食券を買って、セルフサービスで席まで食事を運ぶタイプのものだ。
オレはサバ味噌煮定食にかき揚ソバ。
高橋啓介はかなり迷いに迷って、トッビング山盛りのうどんとトンカツ定食。
食後にアイス買おうぜ、と、妙に楽しそうである。
食べっぷりも見ていて気持ちが良い。オレは食べながらあまり喋らない方なので、啓介の美味そうな食べっぷりを時折眺めながら、食事に集中した。

食後に自販機でカップ式の甘いコーヒーを飲んでから、ようやく互いにリラックスした空気が流れた。
啓介はやはり、後でアイス買うからな、と念を押しながら、空調の効いた店内の席で熱いコーヒーを二人でのんびりすする。
何のアイスを買うか悩んでいた啓介だったが、少しずつ、地元の峠の話になっていった。

とりあえず妙義を中心に、今の群馬の情勢を教えてやる。チームの情報通から伝わってきた話で、自分で確認した訳ではないのだが、啓介がチームの情報担当から知らされている話とそれほど違いは無かった。
皆、Dの動きに注目していて、走り屋界全体の気分が高まっていることは確かで、それを伝えてやる。

「Dの話は随分と聞いてたんだけどよ、実際見に行ってみて、…良かったぜ。すげえ走りだった」
素直にそう誉める。啓介は少し驚いたような表情を向けてから、ニカ、と笑う。
「アニキがすげー厳しいからな、走りこみからデスクワークから、絞られたんだぜ。ホントにスゲーのはアニキなんだ」
「けど、高橋涼介がいくら凄くても、それに応えられるドライバーじゃなかったら、ここまでは来られなかったろ」
「アニキに選ばれたことは誇りに思ってるぜ。これはアニキの夢を叶えるためのプロジェクトだからな。アニキの期待に応えたいって、ずっと頑張って来た。……けど……」
「?」
自分の兄を自慢気に語る高橋啓介の語尾が、そこで真摯な雰囲気を帯びた。何か大切なことを話したいらしい、そう気づいて、こちらも真剣に耳を傾ける。
「こないだのバトルで、…ああ、34のGT−Rだったんだけどよ。イイ年したオッサンがバトル相手で、それがまた随分と豪快なオッサンで。……そんで走りがまたトンでも無かった」
「……」
オレは黙って頷いて、先を促してやる。
「一本目はアニキの指示通りに走れたんだけど。二本目に入ってから、オッサンがまた滅茶苦茶理解不能なすげー走りしやがって、……こっちも頭真っ白になっちまってさ。GT−R乗りはトンでもねえよ。アニキの教えとか、全部吹っ飛んじまった。あんな夢中で走ったのは、久しぶりっつーより、初めてだったかも知れねえ。適わねえぜ」
「…でも勝ったんだろ」
「勝ち負けとか、あんま関係なかったな。勝てたのは嬉しかったけど、あのバトルでオレの中で、決定的に変ったことがあったんだよ」

「あの時、オレはオレのためだけに走ってた……そういうことなんだ」

何も無い空間に記憶を辿らせるような強い視線を向けていた啓介の、その視線がこちらにピタリと向く。
「そうか…」
走り屋が自分のために走る……自分のような走り屋にはそれは至極当然の事だ。だが、高橋涼介という天才ドイラバーを兄に持つ啓介にとっては、走ることは、今まで違った意味を持っていたのだろう。
兄とは切り離すことができなかった走りが、自分の物となってきている。
そのことを誰かに話したかったのだろうが、細かい機微まで理解してもらえる走り屋の知り合いが皆、涼介の腹心でもある者ばかりだったとしたら。
兄に絶対に話が漏れる心配の無い、その上で走り屋としての高橋啓介の気持ちを理解して話を聞いてくれる友人がなかなか見つからなかったのかも知れない。
それなら多少事情を知っていて、バトルもしたことがある自分を強引にFDに同乗させたことも頷ける話だ。

「高橋涼介にとっても、それは本望なことだと思うぜ」
あの見事な走りを完全に自分のものにしている弟に、満足と、そして間も無く訪れる夢の終わりを予感して、あの天才は感慨にふけったりしているかも知れないな…と思いを馳せる。
「そうか、その話がしたくて、R乗りのオレを誘ったんだな」
うんうんと納得して頷いていると、

「あ? ああ、まあそれもあるけど、今の話はまあ、ついでだ。お前見てるとGT−R思い出しちまうからな」
「はあ?」
「まあ話したかったのはそうだったんだろうな、話したらスッキリしたし。」
「何だそりゃ」
人がせっかく真剣に話を聞いてやったのに、とちょっとムっとした。
「じゃあその話ってのは一体……」
「あー、アイス買いに行こうぜ」
話をはぐらかすように、売店へと啓介は向かう。
「一体何なんだ…」
ため息をつきながら、その後に続いた。

とりあえず付き合いでアイスを買って、店内で黙々と食べてから、再びFDに乗り込んだ。
群馬のインターチェンジに近づくと、薄っすらと夜が明け始めた空に、特徴的な秋名山のシルエットが浮かんでいる。
高速からこの山が見えてくると、群馬に帰って来たという安心感というか感慨がいつも浮かぶ。
右手には赤城山。妙義はここからは遠く、この暗さでは影は見ることはできない。

「お前んち、妙義の近くなのか? どの辺だ?」
「うち?」
「どこで高速降りたら良いんだ?」
本当にウチまで送るつもりなのかと驚いたが、近くの駅まで送ってもらえばこの時間なら良いだろうと考え、高速の降り口を教えた。

市街地を走って駅を指定すると、啓介が眉を寄せてこちらを見てくる。
「家まで送るぜ」
「いや、駅でかまわねえよ」
「ここまで来て、駅までとかねえよ。何のために車乗ってんだって。家教えんの嫌なのか? 家族が迷惑するとか」
「一人暮らしだからそれはねえが」
「だったらここまで送って来たんだぜ、お前んちで茶ぐらい出せよ」
「………」

勝手に送ってきたくせに図々しい物言いだが、そう言われると茶くらい出した方が良いのかも知れない。だが、それだと高橋啓介をアパートの部屋に上げることになるのだろう。

「言っとくが、オレんちは安アパートだから狭いぜ。客をもてなすような場所もねえし。お前んち金持ちなんだろ、ウチに来るよりどっかファミレスで何かおごる方が良いんじゃねえか?」
「んなこと気にしねーよ。走り屋になる前は、ダチのウチに入り浸って、ほとんど家に帰らなかったぜ。とにかくそのアパート教えろ」
完結に言い切られて、仕方なく、アパートまでの道を教えた。


アパートの隣に駐車場があり、GT−Rはそこに駐めてある。
その隣が空きスペースになっていて、仲間が来たときにはそこを来客スペースとして貸してもらっているので、FDもそこに駐めさせる。FDから降りた啓介はしばらくGT−Rを眺めていた。

年季の入ったアパートの二階奥の部屋に、高橋啓介を案内する。
ベッドとテレビの間にローテーブルがあって、その辺りに座布団を敷いて座ってもらう。
「茶か、…コーヒーでも良いか? お茶が良いのか?」
何だって良いらしい啓介に、一応ドリップでコーヒーを淹れることにした。
啓介は、フーンと珍しそうに部屋をキョロキョロと眺めている。
正直あまり見ないで欲しい。
「ここ、自分で借りてるのか?」
「ああそうだ。かなり安く借りてるんだけどよ」
「お前って、仕事してんの?」
「そりゃ仕事しなけりゃ、Rだって維持できねえだろ。お前はどうなんだ?」
「……まあオレは学生だけど」
「フン、お前のあの走りが無けりゃ、これだから金持ちのボンボンは、って笑っちまうトコだがな」
そう言うと、反論に窮したのか、啓介がムウっと口をとがらせる。
それがどうにも子供っぽい表情で、年下らしさを感じて気持ちが少々和んだ。

バトルする上であまり考えたことは無かったのだが、ハチロクの藤原といい、高橋啓介といい、若くて走りの経験が浅い。
それなのに、こちらが舌を巻くドライビングセンスを見せ付けてくるのだ。
その成長速度を羨ましくも思いはするが、実際にあの走りを見てしまえば、素直に賞賛するしかなくなる。
群馬の走り屋として、高橋啓介にはこれからもその走りに磨きをかけ続けて欲しいと願う。

「まあ確かに買ってもらった車で、走りはアニキに教わりまくって走ってるけど。出世払いは絶対にするつもりだぜ」
「分かってるよ。お前が真剣なのは」
フフンと笑ってやると、少し目を大きく開いた啓介が、精悍さの乗る良い笑顔を向けてきた。
とりあえず熱いコーヒーで喉を潤しながら、啓介のいるこの空間と時間は、少しずつオレに馴染んでいった。

「そういやお前、ここでゆっくりしてて時間大丈夫なのか? 帰らねえと高橋涼介が心配するんじゃねえか?」
自分を送ってきて、そのまま居つきそうなまったり具合の啓介に一応心配して声をかける。
「……オレがいちゃ迷惑かよ」
「そんな事言ってるわけじゃねえだろ」
スネたような表情で言われて、どうも表情がクルクル変るヤツだなあ…と思う。
「余裕があるってんなら、まあゆっくりしてけば良い。ああ、何か話があるとかお前言ってたよな。何なんだ結局その話ってのは」
「う………」
啓介の表情は今度は追い詰められたようなものに変って、それからチラリとこちらに視線を向けてすぐに逸らされる。
何だか妙に嫌な予感をかきたてる仕草だ。
なんなんだその反応は…。

「あーまあ…なんつーか。……そうだな」
啓介は明るい色の髪を手でくしゃくしゃと掻き混ぜてから、膝を二三度撫で、アゴに手を添える。
そのまましばらく逡巡していたが、意を決したのか、こちらに視線を向けてきた。

「中里」
「……なんだ」
一体どんな話があると言うのか、予測もつかなくて息を飲んだ。

「お前、今……付き合ってるヤツとかいたりするか?」
「はあ!?」
予想外すぎるその問いに、オレはしばらく開いた口がふさがらなかった。



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