天上から降り注ぐ、清らな光。涼しげな音をさらさらとたてる噴水の足元で、その男はそっと水面に指を浸している。
男は…いや、それは人ではなかった。ゆったりとした衣の背中には白く輝く六対の翼が、祝福の光を浴びて幾重にも乱反射している。……天使、と呼ばれる者だった。
どこまでも白一色の彼の色の中、異質なまでに黒い、しかし艶やかな、髪と瞳。精巧に創られた、美貌。その切れ長の眼はうっすらと細められ、薄い唇には微笑が湛えられている。神に最も愛され、地上を最も愛する天使、涼介は今、水鏡から地上に住まう愛する人間を眺めていたのだった。
「アニキ!?…なに見て笑ってんだ?」
不意に涼介の上に影が掛かったかと思えば、それは、涼介の弟、…といってもほぼ同時期に神に創造された為便宜上兄弟と言う形を取っているだけだ、啓介が上から兄の手元を覗き込んでいた。
まずいところを見られたと涼介は内心思った。この自由奔放を具現化させたような産まれたままの弟は、非常に勘が鋭い。今自分が見ていたものに気付かれないよう、表面上はそんな心の内を見せる事なく綺麗に笑った。
「愛する子らを見ていたのさ…本当に、彼…等は美しいな」
「そうかぁ…?弱いし狡いし、小汚ねーし…どこもキレーとは程遠いぜ?アニキのすげーのは分かってるけどさ、そのシュミの悪さだけは理解出来ねー」
涼介が歌う様にうっとりと呟いたのに対して、啓介はやはり涼介の様にすっきりと整った、けれど幾分精悍さを秘めた男らしい眉をしかめ、唇を尖らせて不満を露わにした。子どもじみた仕草に金色の髪がゆらゆら揺れる。その率直な反応も涼介の愛する所で、ひとしきり苦笑すると、
「いや…解らなければそれはそれで構わないさ」
と、安心したように何気なくそっと掌で水面を覆った。所作の全てが優美な涼介には珍しい、微かなぎこちなさに、啓介の興味がそそられた。
「…アニキ、今、何隠した?」
「お前は見ない方が良い」
大抵の事は笑って許す兄の、初めての柔らかい否定に、ますますイラつきが募り水面を隠した手を払うと、啓介はそこに映り込んだ人間を見た。
それは、一見普通の青年の後ろ姿だった。余りに平凡な、黒い髪に黒い服、中肉中背のその男は小さな銀の十字架をかざして、異形の者と対峙している。祈りの言葉でも吐いているのか、怪物を睨み付けていた顔が、ふいに天上へ、自分に向けられた。泣きそうな、顔。
『神よ!御慈悲を!!』
ドクンッ、と啓介の心臓が跳ねた。いや、心臓ではない。もっと奥の底の底の、自分の創られた核の辺りに罅が入ったような衝撃があった。これは、なんだ?
「啓介…!?…まずいな。よせっ」
涼介がらしくなく焦ったように啓介を水鏡から遠ざけようとしたが、強力の弟は知ったことかと、尚もその男の瞳に見入った。
何て目で俺を見るんだ!?
実際には彼を見ている訳ではないのだが、啓介には男が自分だけをすがって助けを求めているように見えた。濃い睫に縁取られた大きな黒目がちの瞳が瞬くたびに、滲んだであろう小さな涙の欠片が弾けて飛んだ。鋭い鉤爪が男の体を引き裂く。
胸の奥の罅がまた音を立てて軋みを上げた。穏やかで退屈過ぎる暮らしをしていたさっきまで、知らなかった高揚と焦燥感。知らず呟いた。
「俺を…呼べ」
喉がひりつくように渇いた。渇きなど感じた事もなかった体が何かを求めた。譫言のように、啓介だ…呼べよ、俺を…呼べ…と目を見開き、届きもしない水面に呟き続ける。
朦朧とした様子で水鏡に語りかける啓介を、涼介は最早止めはしなかった。ただ微かに舌打ちをして、己の愚行を呪った。
ああ、これは、堕ちる。
何となく、そうなる気はしていたのだ。あれを見たら、そう、なるのは。胸をかきむしりたくなるようなざわめきをあれは喚起させるから。だから、一人で見ていたのに。そっと隠れて、魅入られないように、見ていたのに。しかしやはりとうとう見つかってしまったか。
涼介が暗い顔で自分を責めている間も、兄の存在などそっちのけで熱に浮かされたように水面を凝視し続けた啓介に、急激に異変が起きた。
「……あ!?…ッツ…?ぐ、…ぅう……!!」
白い羽毛がばらばらと抜け落ちた。みすぼらしくなってしまったまばらな翼から黒い染みがじわじわと浸食し、体全体を覆っていた光が薄れて…消える。神の愛が消えて行く。ギシギシと体中が軋みを上げる中、思い出したようにに兄に振り向くと、敬愛してやまない兄は心底うらやましげに啓介に宣告した。
「お前は神の愛を失って、地上に堕とされるんだ。ああ、でも人の愛は総てお前の物なのだから…」
良いだろう?と。
「な…堕ち…何、言って…?俺…どうなっちま…う…」
苦痛に顔を歪ませた啓介が疑問を言い終わらない内に、ほんの少しの悲しみと妬みを滲ませた美しい笑顔で、涼介は啓介を噴水へ軽く突き落とした。
直ぐに背中を打ち付けるであろう衝撃を予感して一瞬目を瞑った啓介は、浅い筈の水底の噴水が啓介を支える事なく啓介を透過させた事に、瞬時に気付いた。堕ちている!?呆然とした表情のまま啓介は地上へ向かって真っ逆様に堕ちて行ったのだった。
「か…、神よ…っ!!て…天に坐…すっ…ぐっ…うっ…」
崩れ落ちるように膝をつく。何とか致命傷を免れるように距離を取ってきたが、それも限界のようだ。中里は握り締めた掌中の十字架を見つめた。何故か今回に限って神の慈悲が、雷が来ない。中里はボロボロの体でそれでも尚、天を見上げた。祈りは届いている筈だ。しかし、異形に受けた傷は浅くはなく、もう立ち上がる気力も祈りを捧げる力も無くなった。神の雷を賜りし者として、悪魔払いの最前線にいた自分の最期がこれか…。そううなだれた時だった。
隕石の落ちる音が耳に飛び込んで来た。段々近付くそれは、偶然にもあと一歩で飛びかかってくる異形を呆気なく押しつぶした。しゅうしゅうと障気を周囲に撒き散らしながら現れた、新たな異形の者は瀕死の中里に向かって唐突に口付けると、
「お前のせいで悪魔になっちまったんだから!責任とれよな!!」
と、なんとも理不尽な文句を垂れてふんぞり返った。
これは、神の試練なのか…?血液が大量に失われるのを自覚しながらも中里は金髪、黒翼の半裸の男を見やる。悪魔だ…確かに。
「って…!?え?おい死ぬな!それじゃあ意味ないだろ!!啓介だ!啓介って呼べ!そしたら治してやるからっ!!」
夢だ…これはきっと覚める悪夢だと自ら意識を手離そうとする中里の薄い肩をぶんぶん揺らしながら、人を惑わし堕落させる筈の悪魔はなぜか半泣きで悲鳴じみた懇願をしていた。薄れゆく視界のなかで、中里は俺はなぜ天使ではなく悪魔を召還してしまったのか自分の信仰に少しだけ疑問を持ってしまったのだった。