けたたましい目覚まし時計の音。カーテン越しにさえ瞼を突き刺してくる朝陽。覚醒しつつある頬に冷たい晩秋の空気。
また朝が来た。仕事がある。起きなければ。
ベッドサイドの目覚ましを止めてやり、中里はまだ開かない瞼はそのままに両腕を頭上へ伸ばして大きく伸びをした。疲れのせいか、伸ばした関節という関節が軋むような痛みを発したが、悲鳴をあげるほどではなかったので放置する。深呼吸をして酸素を大量に補給し、煤まみれの肺からタバコ臭い二酸化炭素を吐き出す。そうするとやっと頭が目覚めへの準備を始める。やはり腰の辺りに鈍痛が走ったが、昨日応援に行かされた不慣れな作業のせいだと疑わなかった。
毎朝の習慣だ。起きたら適当に朝飯を食って、歯を磨き顔を洗い、見られる程度に髪を整え身繕いをし、戸締まりを確かめて出勤する。洗濯はこの時期、二日か三日に一度で十分だ。
彼は伸ばした腕から力を抜き、重力に従って身体の両脇に落とした。その時だ。
「……ってぇ……」
右の肘になにかが当たった。当たった物体がくぐもった音を、いや声を上げた。嫌でも目が覚めた。その声のせいで思い出した。翌日仕事だから泊められないと断ったのに、強く迫られ押し切られ、結局ベッドに引きずり込まれ……あとはまあ思い出したくもないが、関節という関節に疲労を残すような次第に至ったわけだ。一回だけだ、すぐに終わらせるから。その言葉にうっかり絆された自分が馬鹿だった。
右肩の方へと顔を向ける。頭のてっぺんだけが布団から出ている。色が抜けて明るい茶色になっ
ている髪が、朝陽の中では金色に見えた。
「おい、起きるぞ」
その頭をノックするように緩く固めた拳でつつき、中里は身体をシーツから剥がすように起こした。忌々しい腰の痛みに思わず唸る。眠って目覚めた後だというのに、ちっとも疲れが取れていない。むしろ疲れ切っている。その元凶は生返事を返すだけで少しも起きあがる気配がない。
放っておいて、とりあえず自分は毎朝の習慣を再開させる。時報代わりにテレビを付ける。薬缶に水を入れ火に掛け、冷凍しておいた白飯をレンジに放り込んで加熱を始め、それからトイレ。戻ってくる道すがら洗濯機を覗き込み、回すのは明日と確認する。
いつも通りの朝だ。ベッドの上の物体を除けば。
ワンルームだから嫌でも布団の盛り上がりが目に入る。主が抜け出したあとでも惰眠を貪っている図太い生き物の名は、高橋啓介と言った。
レンジが電子音で中里を呼び、呼ばれた彼は一人分にパッキングしたそれを取り出して、そういやこいつも食うのか?と布団を被ったままの啓介を見た。
「高橋、お前飯は?」
言ってから、なんで俺が訊いてやらなきゃならねぇんだと、一人でむっとする。なにせ相手はまだ布団の中で丸まっているのだ。
返事がなければ二度とは訊いてやらないつもりだったが、こういう問いにだけはやけにはっきりと「食う」と返してくる男がまた忌々しい。仕方なくもう一つパックを取り出し、再度レンジを稼動させた。沸いた湯で、普段使いの椀と、狭い収納から引っ張り出した予備の椀にインスタントのみそ汁を作る。ベッドとキッチンの間のテーブルに箸と共にそれらを置き、冷蔵庫からプラスチック容器に半分ほど残された惣菜を出した。昨日、コンビニで買ったものだ。
グラスに冷やしておいた茶を注ぐ。猫舌だから、忙しい朝は熱い茶を飲んでいる暇がない。
飯が温まる。椀と共に出しておいた予備の茶碗にパックの中身を出し、自分のと一緒にテーブルへと運ぶ。
「高橋、」
こっちの動きは音と気配でわかるだろうに、一向起きてくる様子のない啓介に声をかけ、不明瞭な反応に焦れてベッドへその身体を揺すりにいく。「おい」と苛立ちを隠さず音にして、肩に手をかけた。
啓介は、起きていた。肩に置いた手を握られ、驚き怯んだところを手首を握り直して引き寄せられた。
「てめっ……高橋!」
不意を突かれて啓介の上に倒れ込む形になった中里は、自由の利くもう片手で間近に近付いたシーツを押し返し啓介との距離を保とうとした。
対抗するように、啓介の手が首の後ろに回される。寝起きのくせにやたらと力強い。さらに引き寄せられる。唇が唇に寄せられる。触れる。
「高橋!」
キスされながらでは抗議の叫びも鋭さを失ったが、「まだ早ぇだろ」などと、のんびりとした、どこか人を小馬鹿にしたような口調で言われると、さすがにキレそうになった。
シーツについていた手を啓介の額に押し当て、押し返した。
「早くねぇ、俺は仕事だ」
「休めよ」
薄く開いた茶色の瞳がひたとこっちを見据え、その持ち主が事も無げに言った。
今度はぷっつりとキレた。堪忍袋の緒が。
「馬鹿野郎、俺ァてめぇと違うんだ」
もともと容量の大きい方ではない堪忍袋だ、ぶん殴ってやりたい衝動をなんとか抑え低く咎める
だけに留めるには、相当の精神力を要した。
あくせく働いたって、クルマが全部持っていく。暮らし向きなど推して知るべし、食うのが精一杯、好いた女の子にも金をかけてやれずフラれることなど日常茶飯事だ。有給なんてどれだけ貯まっているか知れない。どれだけ無駄にしているか知れない。だが、働かなければ残業も手当てもつかないのだから、働かざるを得ないのだ。
病院を経営する両親を持ち、経済的には何不自由することなく維持費が莫大にかかる車を乗り回している年下の男に、しかもやたらと甘い空気を作りながら言われたくはない一言だった。
啓介もさすがに目が覚めたのか、半開きの目を大きく開き直して中里を見つめ返してきた。手に籠めた力は抜かない。これもこの男らしいといえばらしい。
「……悪かったよ。そんな怒んなって」
すんなりと非を認め、啓介は殊勝に眉尻を下げた。素直で、妙なこだわりを持たないのは彼の良いところだ。中里も、謝っている人間をさらに責めるようなことはできない人間だ。
「わかりゃいいんだよ。だから手ぇ放せ」
声音を和らげ、額に置いていた手をどける。
「平日なのに、いきなり泊めろとか言うお前が悪いんだぜ」
続けた言葉が言い訳がましくなるのを、中里は我ながら厭わしく思った。正しいことを言っているのに言い訳がましくなるのは、啓介の所業に絆されかけている証拠だった。
だがしかし、こうしている間にも時間は過ぎていく。テーブルの上にスタンバった質素な朝食も冷めていく。今すぐにでもこの状況から抜け出さねばならない。
「手、放せって」
「キス、」
啓介が呟いた。うまく聞き取れなくて、聞き返す。
「なんだって?」
「キスしてくれたら放す。お前からな」
「……っ……、どうしてそうなる!」
頭に血が上っていくのが判る。顔にも血が上っている。赤くなっているのが判るほどに、熱い。
セックスなど、実は何度もしているが、こういうやりとりには何度肌を重ねても慣れることができない。
馬鹿馬鹿しいと言い捨てて、中里はシーツの上に再び腕を突っ張った。その甲斐あって啓介の手はうなじから外れたが、手首は掴まれたままだったから、ベッドから離れることはできなかった。
「さっさと起きろ。お前だってなんかあるだろ。仕事だか学校だか知らねぇが」
「こんな早くなくてもいいんだよ」
中里の手首を掴んだまま、啓介は今度はその手を自らの口元にもっていき、甲に口づけてきた。
中里は不覚にも息を飲んだ。
「俺が出掛けるときに一緒に出ろよ。鍵掛けなきゃなんねぇし」
誤魔化すように、正当な主張をしてみるが、声に力を籠められたかどうかは自信がなかった。
「合い鍵くれよ」
「ねぇんだよ、作んなきゃ」
「そんじゃ、作ってくれ」
いや、そうじゃねぇだろ、と中里は言いかけてやめた。無駄な会話だと思った。そもそも啓介を
この部屋に泊めること自体、今回が初めてだったのだ。初めてのお泊まりで、合い鍵寄越せとは図々しいにもほどがある。そしてこの高橋啓介という男は、こういう図々しさを図々しいとも思わずに発揮できる人間だった。こっちが世間一般の基準を説こうと思っても、説き伏せられてくれる人間ではないし、その時間もない。
ということは、ご要望通りにキスしてやるのが一番無駄がないということだ。
中里は、どうにもこの我が儘な男のいいように振り回されているような気がしてならなかったが、しょうがねぇなと呟きながらも唇で軽く触れてやった。空気が乾燥していて自分の唇はかさついているのに、啓介の唇はしっとりとして弾力があった。年齢のせいだろうか、栄養状態のせいだろうか。この現実から逃れたいが為にどうでもいいことを考えた。
二秒で唇を離し、これで文句はなかろうと男の顔を見る。だがそこにあったのは、いかにも文句のありそうな、釈然としない男の顔であり、経験からしてこの男が妥協という言葉を知らないことを知っている中里は無意識に身構えた。
「……あのな、」
案の定、啓介は不満たらたらに語り始める。
「初めてだぜ?初めてお前の部屋で一緒に朝陽を拝んでんじゃねぇか。そりゃよ、ちょっとは無理言っちまったけどよ、山やホテルで済んだらサヨナラってのとは違ぇだろ。渋々でもお前がOKしてくれて、俺は嬉しかったんだぜ?まあだからいっぺんで終わらせてやれなくて悪かったよ、嬉しかったんだよ俺は、そんだけ。お前だってもっと喜べよ、好きな相手にあんだけ欲しがられるっつーのはよ、やっぱ嬉しいもんじゃね?ぎりぎりまで一緒にいたいと思うじゃねぇか、それが当然だろ」
最後の辺りは諭すような、それでいて懇願するような、妙に芝居がかった口調で、表情だった。こっちを懐柔しようとしているのが見え見えだった。どこからつっこんでいいかも判らない。
どうしたらこの男を黙らせ、この部屋から追い出せるのだろうか。中里は溜息を吐いた。
残業を終えて自宅に戻り、コンビニ食で手早く夕飯を済ませて峠へ出向いた。翌日も仕事だから早めに帰宅するつもりだった。上りと下りを何本かこなした。駐車場でチームのメンバーといつも通りのくだらない言葉の応酬をし、タバコを吸い、時計を見たらまだ日付が変わるまでにいくらかあったから、もう少し走るかと愛車のドアを開けたとき、携帯が鳴った。啓介だった。今どこだと言うから、峠だと答えた。あと三分で着くからそこにいろと言われた。もう上ってんじゃねぇかと呆れれば、愛の力だと返ってきた。訳がわからなかった。
本当に五分で駐車場に現れたド派手な黄色のFDは、まっすぐGT−Rの隣に滑り込んできた。
降りてきた男も派手だった。なにが派手というより、全体の空気が派手なのだ。こっちにまで突き刺さるメンバーの視線が痛かった。
「走るのか」。当たり前のことを訊かれた。男もこっちの返事など期待していなかったようで、
応える前に「あとどれだけかかる」と問いを連ねた。そこでやっと中里は、「何の用だ」と尋ねる
ことができたのだった。
訊かれた男は切れの長い目を一瞬見開き、それから心外そうに眉を顰めた。いきなり訪ねてこられた自分がそういう顔をするなら話はわかるが、されるいわれはないような気がしたから、さらに「なんだ」と重ねた。派手な男は「会いに来てやったんだよ」と押しつけがましく言った。もっと喜べよ、とも言った。俺がここにいなかったらどうするつもりだったんだ。訊けば、いたんだからいいじゃねぇかと答えになっていない答えを寄越してきた。そしてにやりと唇の端を持ち上げ、「確信があったんだよ、愛だろ」と続けた。
ああ、ここに繋がるのか、と中里は先ほどの電話をぼんやり思い出した。「愛の力か」。死ぬほど甘い菓子を口いっぱいに詰め込まれたような気分で呟くと、「すげぇだろ」と男は無邪気に笑みを深くする。口調は至って軽い。どこからどこまで本気か判らない。言葉の意味さえ判っているのか疑わしいと思う。だから中里は、啓介に思いを告げられたときも、その日のうちにまんまと戴かれてしまったあとも、それらの言葉にも行為にも深い意味を与えることを避けた。今でも避けている。走りで一度負けているという事実も生活レベルに格段の差があるという事実も彼を卑屈にすることはなかったが、俺とこいつは違うのだという思いは常に存在する。一つのものを同じ価値観を持って見ることができない。認識が違う。だから彼に「好きだ」と言われても、自分が知っている「好き」という感情と同じだとは思えなかった。
啓介の登場で、走る気が失せた。集中力がなくなっていた。メンバーの視線から早く逃れたかった。なによりも啓介をここに一人で待たせることが怖かった。待たせている間に、好奇心旺盛な妙義ナイトキッズ構成員の野次馬根性をいかんなく満たしてしまう恐れが十二分にあった。この男と自分が今どんな関係にあるのか知られるのは、いくらなんでも拙い。噂されるくらいならどうということもない。元々飽きっぽく忘れっぽい連中だ、否定も肯定もせずに放っておけばそのうち静かになるのだ。
さて、高橋啓介が自分に会いに来て、顔を見ただけで帰るなどということはありえない。ということはこのあと一時間か二時間かは彼に奪われるということだ。腕時計を見る。明日も仕事がある。休めない。となればさっさと「済ませる」に限る。
「場所を変えよう」と中里は改めてGT−Rのドアに手を掛けた。人が引ける時間でもないからここでというのは無理だ。そうでなくても、たとえば今が草木も眠るような深夜で、二人きりだったとしても、いつ何時誰が来るか知れない野外でコトに及ぶのは、そろそろ遠慮したい。ああいうスリルはいい加減大人になってしまった自分には必要ない。となればどこかここから離れたホテルで、ということになる。車の中でという選択肢は、中里にも啓介にもない。
啓介は中里の発する空気を正しく読み取ったらしく「もう走らないのか」とは訊いてこなかった。代わりに「それじゃあ、お前んちで」と言ってきた。
見下ろした顔は悪びれるどころか、こっちを責めるような色合いに変わっていた。どうして判ってくれないんだと言っている。どうせ言葉を尽くしても平行線を辿るだけなのだから放っておけばよいのだが、中里にはそれもできない。困った性分だと自分でも思う。
「……あのよ、もうすでに結構ぎりぎりなんだよ」
いろいろと訂正したり否定したりしたい部分はあったが、理解を得るのに苦労しそうだったから、まずは物理的に分かり易いところから攻略することにした。時間がない。これほど明確な理由はなかった。
男は瞬きもせずに、じっと中里を見つめた。中里は臆することなく――もしくは臆していると気取られないように――見つめ返した。嘘も誤魔化しも小心も、すべてを見透かすような鋭く澄んだ瞳。見つめられることに恐れを感じるのは、いつものことだ。
しかし、先に目を逸らしたのは啓介だった。
「しょうがねぇな……わかったよ」
掴んでいた中里の手首を放るように放し、のそりと上半身を起こす。中里は部屋着と兼用のスウェットを着て寝ていたが、啓介の上半身は裸だった。もしかしたらその下も同様なのかもしれなかったが、それを目の当たりにする前に中里は解放された手首をさすりつつ踵を返した。
衣擦れの音のあと、ベッドがぎしりと軋んだ。床に足が下ろされる気配がしてから振り返る。薄っぺらいラグの上に立った啓介はジーンズを穿いていたが、上半身は裸のままだった。「さみい」と呟きながら、そのままテーブルの側に腰を下ろしてきたので、中里はまた「上はどうした」と余計な詮索をしなければならなかった。
「見当たらねぇ。布団ン中かどっか紛れ込んだんじゃねぇか。あとで探す」
昨日は余裕なかったからよ、と啓介は寝癖のついた頭髪を指先を入れることでひとまず落ち着かせ、用意された食事に向かって手を合わせた。
彼のその意外な仕草にちょっと感心しつつ、あれ?今なんかすごいことをさらっと言わなかった
かこいつ、と思考の足を止めてしまったのが中里の敗因だった。やっと冷めてきた顔が、またしても熱くなる。加えて目の前の男はしなやかに鍛えられた胸板を、肩を、腕を、惜しげもなく晒している。あの胸に抱かれた、肩に抱きついた、腕で抱えられた――突如鮮明に思い出された昨夜のアレやコレやソレに、恥ずかしさですぐにでも部屋を飛び出したい気分になった。
真っ赤になっているだろう顔を持て余し、気取られていないだろうかと中里は啓介を窺った。
インスタントだとか出来合いだとか冷凍だとか、そういうものだけの食事でも彼は食べるのに夢中になっている。どこか楽しげでさえあって、そんなものしか用意してやれないのが少し申し訳なくもあり、いやいや、突然泊めろなんて言うヤツが悪いんだと思い直す。
ふと、啓介が目を上げた。こっちの視線に気づいたのだ。
「なんだよ。なんか赤いけど、お前。つか食わねぇの?ぎりぎりなんだろ?」
「あ?……ああ」
曖昧に返しながら箸を持ち、茶碗を持った。
啓介は茶碗を持ったまま左手を胡座の膝に置き、右手で箸を持ったままテーブルに頬杖をついた。その行儀の悪さを指摘してやるべきか否かを迷いつつ、中里は飯を一口頬張った。
頬杖をついて啓介はそれを見ていた。そしてゆっくりと満面に笑みを掃くと。
「お前、昨日の思い出してただろ」
「……っ!げほっ!」
頬張った飯粒を噴きそうになり、すんでのところでろくろく噛まずに喉へと押し込んだら咽せた。ひたすら咳き込んだ。息を吸う間もなく咳が喉を突き上げてくると吐き気までが襲ってくる。
「おいおい、大丈夫かよ」
にやにやしていた啓介が笑いを引っ込め、箸と茶碗を置き四つん這いで回り込んでくる。間欠的に震える背中を彼の手がさすった。大丈夫だ、と返すまでにしばらくかかった。
どうにかこうにか落ち着いてからグラスの茶を一口飲み、喉の調子を確かめるように深呼吸をし、滲んだ涙を指で拭った。
元の位置に座り直した啓介が、またしてもにやにや笑っていた。
「反応が過剰だぜ、お前」
今度は「うるせぇな」と応じることができた。
「揺さぶりに弱ぇっていうか……メンタル鍛えとけよもっと」
「あのな、走ってる最中ってんならまだしも、飯食いながらそんなテンション保ってられっかよ」
「保てよ、俺がいんだから」
なに言ってやがる、と言いかけ、何気なく目をやった顔からは笑みが消えていた。言いかけた言葉も喉の奥に消えた。啓介は箸も茶碗も手に取ることをせず、中里をまっすぐ見つめていた。適当すぎる食卓にも、男の頭頂部に残っている微妙な寝癖にも、裸の上半身にも似合わない真剣な瞳が中里を見つめていた。
「俺はさ、気合い入れてきたんだ、これでも」
まあ、思いつきではあったけどな、と続けた口振りは気持ち投げ遣りではあったが、総じて神妙であることには変わりない。
「どうやったらお前と同じ目線になれるかってよ、考えに考えた結果なんだ。考えがまとまったら、じっとしてられねぇんだよ。そこはしょうがねぇ、俺の性格だ」
この男の性格は、ほぼ正確に掴んでいるつもりだ、言われるまでもない。というか、これほど見たまんまの性格も珍しいんじゃないかと思う。なによりも行動が先に立つ。理由はあとからついてくる。ついてこないこともある。そこに頓着することもない。むしろ「考えに考え」る高橋啓介の姿を想像することができない。「考えたのか、お前が」と、そのつもりはなかったのだが、口にしてしまった。啓介は「考えるさ、俺だって」と意外なほど冷静に応えてきた。
「頭は悪ぃけど」
「らしいな」
「そこ、ちっとは否定してくんね?」
「や、否定する材料がみつかんねぇし」
すげなく言うと、啓介は、ちぇ、と唇を尖らせる。子供じみた表情だ。はっきりと訊いたことはないが、年齢的には三つか四つは自分より下だろうと中里は思っている。それもかなり控えめに見てだ。自分もいまだに峠を攻めてなどいる立場上偉そうなことは言えないが、高橋啓介という男はガキがそのままでかくなっただけだなと感じることが多々ある。感情表現はストレートだし、落ち着きがないし、反省もしない(ドライビングは例外のようだ。証拠に、ほんの数ヶ月の間に著しい進歩を見せていた)、欲しいものは我慢できない、相手の都合を聞かない、考えない。それでも自分が拒絶されることはないと信じている。
セックスにしても、基本的には無知で自己中心的で身勝手だった。最初をそれで許してしまったから、それでいいと思っているのかも知れない。まあ、男同士のアレコレにやたらと造詣が深く、雰囲気を作りたがる高橋啓介というのも想像しづらいし、したくもないが、女の子相手にこんなだとすぐフられるんじゃないかと思うくらいに体当たりで喧嘩腰なのだ。どうしたいんだお前は、と思う。
「……足掻いてんだよ」
思考の切れ目に滑り込むように啓介が呟いて、中里はぎくりとした。読まれているんじゃないかと一瞬疑う。
「だってお前さ、俺のこと大して好きでもねぇだろ」
そして続いた言葉に、今度は心臓が掴まれたような気がした。