何かを決めつける言い方は啓介の癖だ。自分の考えに疑いも迷いも持ってはいない。そこには彼なりの確信がある。だから言葉に力がある。力があるから、その可能性について中里はひとまず考えてみないわけにはいかなかった。
熟考するのは後回しにして、とりあえず「そんなことねぇよ」と否定してやればよかったと思ったのは、言われてからすでに五秒も経ってからで、むしろその五秒の間に啓介は確信を深めたようだった。今から否定しても、言い訳がましく聞こえるだけだ。
中里は中断していた食事を再開させつつ「どうしてそう思うんだ」と、その根拠を求めた。たしかに「そんなことはない」と即答してやることはできなかったが、だからといってこっちの気持ちまで決めつけられるいわれもない。まともな了承も得ずやってきた男を部屋に泊め、セックスに応じ、こうして飯まで出してやってるのだ。そこからなにがしかのものを酌んでくれてもよさそうなものだと思う。
啓介は怒ったような顔で箸を掴み、「俺は、」と目線を据えてくる。
「なんも知らねぇんだよ、お前のこと。お前が何考えてるかとか、どんな考え持ってるかとか、知らねぇんだ。走りや車のことなら判るぜ。コレに関しちゃ面白いくらい合わねぇよな、俺とお前は。合わせる気はねぇよ、合わせてもらう気も。俺だってそこまで恥知らずじゃねぇ。つか、違うから面白ぇってのもあるじゃねぇか。けど、知りたいとは思う。その違いっていうか、譲れねぇモンの根っこっつーの?どうして俺とお前が違うのか……って、よく判んなくなってきたけどよ」
「……で、どのへんが『大して好きでもない』に繋がるんだ?」
「あ?」
次に茶碗を手にした啓介が、箸の先を飯に突っ込みながら形の良い眉を、今度は怪訝そうに顰めた。
「判んねぇか?」
「判んねぇよ」
「あー、だからよ、そう、だから、お前は俺のこと大して知りてぇと思ってねぇだろってことだ。おんなじモン見てても感じ方ってのは人それぞれじゃねぇか。価値観の相違ってやつか?で、その価値観ってやつは多分、そいつがどんな育ち方してきたかとか、どんな暮らししてきたかとかに通じてんじゃねぇのかな。俺が知りてぇのはお前のその辺な訳だ。だけどお前は俺のその辺を知りてぇとは思ってねぇ。興味がねぇ。それは大して俺のこと好きでもねぇからだ」
「決めつけんなよ」
「じゃあお前は俺のことちゃんと好きなのか?」
投げかけられた問いに、中里はまたしても即答することができなかった。啓介の言う「ちゃんと好き」という状態がどういうものなのか、自分が持っている基準に照らし合わせているうちにタイミングを逸してしまったのだ。啓介はしたり顔で「そら見ろ」と嘯いた。
「応えらんねぇだろ」
「だからって、好きじゃねぇってことになんのか。俺が、なんでお前に……お前と、寝てんのかとか、そういうことは考えねぇのかよ」
「考えるぜ、そりゃ。許されてんなとは思う。あと、面倒くせぇのかなとか。とりあえずヤらせとけば文句ねぇだろみたいなこと、たまに考えてねぇか、お前」
中里の脳裏に、昨夜妙義にやってきた啓介の顔が閃いた。済ませよう、と思った。啓介とのセックスを。
中里は食事を中止した。図星を指された居たたまれなさと、わざわざ自分に会いに来た啓介の気持ち――たとえそれがはた迷惑なものであったとしても――を結果として軽んじたことに対する罪悪感とで、胃が絞られるような感覚を覚えた。食欲が失せた。出勤したあと気分が落ち着けば空腹感に悩まされることになるかもしれないが、このまま腹に詰め込んでも吐いてしまいそうだった。食べ物を見ているのも辛い。中里は黙って立ち上がった。
「その気がねぇなら身体はいらねぇなんてのは嘘だぜ、中里。俺はお前が好きで、欲しいんだ。だからお前がヤらせてくれるんだったらヤるよ、お前が何考えてようと。くれるモンなら何でももらう。お前がいらねぇと思ってるモンでも。捨てるんなら俺に寄越せ。その代わり、一度手にしたら俺は二度と放さねぇよ。捨ててくれって言われても」
啓介はそう追い打ちをかけ、見上げてきた。「食わねぇならそれももらう」と言って、中里の飯とみそ汁にも手を伸ばす。中里はいくらかうんざりとしながら、それを見下ろした。
「……なんでお前、ここへ来た?」
「知りたいからだよ。さっきからなんべんも言ってるだろ」
啓介の応えには、憎らしいほど迷いがなかった。
「叱られて、嬉しかった。ベッドでさ、仕事休めっつったら怒ったろ、お前。嬉しかったんだよ、ああやってもっといろいろ見せてくれよ。一人で割り切ってねぇで、もっと噛み付いてくれよ。車の話するときみたいにさ。Rから降りた途端、物わかりよくなってんじゃねぇよって感じ、俺に言わせたら」
引かれてるみてぇで寂しいっつの。啓介は言葉通りに少し寂しげな微笑を浮かべた。
つられるように中里も口元を緩ませたが、そこには皮肉しか浮かんでこなかった。
「引くしかねぇだろうが、あれだけ押しまくられたら」
流されたわけじゃない。ちゃんと考えて交際を受け入れ、考えて肌を合わせた。そこには確かに自己の責任における決断があった。だが、他の部分で「こいつはこうなんだ」と割り切っていたのも確かだった。何故「そう」なのか知ろうともしなかった。目に見える男の姿はいつもありのままで分かり易く、その根底にあるものだとか背景になっている過程だとかを知る必要もないと思っていた。
ありのままを受け入れることが、自分にできる最大のことだと思っていたからだ。男の深層にあるものを暴いたところで、自分の手には余る。ならば知らないままでいいと思っていたからだ。
「引くなよ。押し返しゃいいじゃねぇか。バトルの時みたいに押しつけがましくなれよ。俺は短気で狭量だからよ、たぶんむかつくし、きっと怒ると思うけど、嫌いにはならねぇ、お前のこと、絶対に」
「別に俺ァ、てめえに嫌われたってどうってこたねぇよ」
「だからさ、どうしてそうやって非常線張るんだよ。意味ねぇし」
「意味ねぇって、てめえ、なんでてめえにそこまで言われなきゃなんねぇんだ」
「ねぇモンはねぇんだよ、お前がどんだけヤなヤツになったって嫌いになんてなってやんねぇっつってんだ、いい加減判れよ頭堅ぇな、じじいかてめえは」
テーブルに箸を叩きつけ、啓介が立ち上がる。中里は怯んだ。上背がある。目に強い光がある。言葉には力がある。男として以前に、生き物としてのもっと原始的で、本能に訴える威圧感を備えた男は、それらを遺憾なく発揮して中里を捕らえようとしていた。
作業従事者の精神状態が良かろうが悪かろうが、ラインは同じスピードで流れていく。組み付ける部品も変わり映えしなければ、手にする工具も変わらない。同じ作業を同じテンポで繰り返せば一日が終わる。ベルトコンベアの脇で中里は、この日も歯車の一つであることを強要されており、また、歯車でさえいれば空っぽでいることも許されていた。面白味のない仕事だとは思うが、どれほど最悪な気分で臨んでも、そのうち空になることができるこの仕事を彼は嫌いではなかった。嫌いではないから、高校卒業からこっち辞めずにすんでいるのだと思う。もしこの仕事が好きだったら、作業効率の低さや現場に横行する不条理を改善しようと奮闘し、やがて疲れて辞めてしまっただろう。どうにもならないことが世の中には多すぎる。それを知り、それを黙って飲み込むことができるようになった。大人になったのだと思う。
時間がないと頑なに主張することで啓介の手を拒み、腹を探られることから逃れ、中里は普段通りに作業位置に立っている。洗面所で身形を整えてリビングに戻ってみたら、啓介は出て行ったあとだった。テーブルの上の食事は、すべてきれいに平らげてあった。
休憩時間はタバコを吸って、用を足して終わる。空腹を覚えたが、何かを腹に入れる時間はなかった。
啓介の生活のリズムなど知るべくもないが、いつもは昼近くならないと起きないんじゃないかと容易に想像がつき、そんな人間が、朝からあんなに食ったらもたれないだろうか、いや若いから平気なのか、などと考えて、その思いつきに嫌気が差した。想像など必要ない。高橋啓介と、自分の間に。
キャップを上げ、額の汗を作業着の袖で拭った。鼻腔に届く機械油の匂いは、洗濯しても落ちない。安全のために軍手をしてはいるが、染みたオイルで爪はいつもくすんだ色をしている。
ふと、今朝この手の甲に落とされたキスを思い出した。啓介はこの指先をよく口にする。舐める。身体に悪ぃだろどう考えても。中里は工具を強く握りしめてラインに戻った。
仕事中はマナーモードにして尻ポケットに入れてある携帯が、何度か震えたのには気づいていた。啓介からのメールであることも予想がついていた。だから中里は、昼休みにも午後の休憩にも携帯を開くことはせず、一時間の残業後、送迎のマイクロに乗り込んでからメールを確認した。彼がこまめに携帯を開くようになったのは啓介とつきあうようになってからで、はじめの頃は親しい同僚からよく「彼女か」とからかわれたものだ。
薄暗い車内に白く光る画面が眩しく、数回瞬きしてからメールを開いた。三通来ている。隣に座った同僚の目を気にしつつ目を通した。一通目で飯旨かったと社交辞令を言い、二通目でやっぱ合い鍵くれと要求し、三通目で今日も会いにいくからと一方的に告げてきていた。どれも短く、そして遠慮や含みがない。甘さもない。けれど不思議と心がほぐれた。頑なだった自分が馬鹿らしく思えるほどに、啓介には屈託がない。今朝自分がこっちに言い放ったことまで忘れているかのようだ。
絆されている、と思う。と同時に、やはり深入りはできないとも思う。そのうちこいつは、好きだと言ったことまで忘れるんじゃないか。後悔も反省もない子どものような男だ、気が変わるきっかけなどどこに転がっているか知れず、変わってしまえば二度と顧みられることもないんじゃないだろうか。それでいい、構わない。その時が来たら、元通りの暮らしに戻ればいい。彼と出会う前の自分を続けていけばいい。そのために、深入りは、しない。
中里は、返信せずに携帯を閉じた。視界が暗くなった。
マイクロの停留所からアパートまでは歩いて五分。同じバス停で降りる同僚は何人かいるが、中里と同じ方向へ歩き出す者はいなかった。彼らは明るい方へ、中里は暗い方へと帰る。しかし徒歩五分の道のりの途中にコンビニもあるし、不便を感じたことはない。そのコンビニで、ほとんど毎晩夕食を仕入れている。今夜もそのつもりで、いつものようにそこだけぽっかりと明るい駐車場へと足を踏み入れた。
俯いて歩いていたからだろう、彼は自動扉の前に立つまで、その存在に気が付かなかった。夜目にも痛い黄色。通りかかるだけで目に入りそうなものなのに、直近に至るまで気づかなかった。咄嗟に、店内へと目をやった。雑誌を開いていた男がこっちに気づいて目を上げた。笑いかけて途中でやめたような、奇妙な顔つきをしていた。多分自分も、そんな顔をしているんだろうと思った。そして、高橋啓介にこんな顔は似合わないとも思った。
ここまで来てしまって、無視することはできなかった。晩飯も買わなければならない。中里は開いた自動ドアから店に入り、ちょっと迷って雑誌売り場へと向かった。隣に立つと、啓介が「メール」と言った。
「見たか?」
「見た。悪かったな、返せなくて」
「返さなかった、んだろ」
指摘され、中里はぐっと息を飲んだが、それ以上追及されることはなかった。代わりに、「出ようぜ」と腕を取られた。同じ棚を見ていた客とレジの店員が、ぎょっとしたように見てきた。
「放せよ」
「放したら逃げるだろうが」
声は低く落としたが、ただならぬ空気があったのかもしれない。店員同士が目配せするように顔を見合わせているのを中里は視界の端で確認した。店内でケンカでも起こったら一一〇番する決まりにでもなっているのだろうか。啓介も自分も、お世辞にも品の良い外見とは言い難い。
啓介の手を振り払うこともできそうだったが、それこそケンカかと思われそうだったから、中里は大人しく引かれるままに店の外へと連れ出された。
「乗れよ」
啓介は助手席のドアを開けて言った。台詞ほど強い語調ではなかった。嫌だと言えば手を放しそうだった。しかし、そうしなかった。中里は男の言うままに彼の愛車であるFDに乗り込んだ。エンジンに火が入れられる。独特の音が鼓膜を震わせた。水温計を見たところ、アイドリングが要るほど冷めてはいない。啓介がここへ来たのはそんなに前じゃないと判る。
なめらかに走り出した車は、中里のアパートにすぐ到達する。
それほど広くはない来客用スペースにきっちり駐車し、啓介は黙って運転席から降りた。中里も口にすべき言葉を持たなかった。啓介の先に立ち部屋の前まで来る。ジーンズのポケットから鍵を出すと後ろから奪われ、啓介の手でドアが開けられた。些かムッとして頭半分高いその顔を見上げれば、コンビニで見た妙な顔つきのままの男の目は自分ではなくまっすぐ前方へ、すなわち部屋の奥へと据えられていて視線が合うことはなかった。
気分は、わりあい落ち着いていた。三通目のメールの通り自分に会いに来たとしても、あのコンビニで顔を合わせるとは思っていなかったから焦ったしバツの悪い思いもしたが、十二時間と少し前に言い争ったことなどもうどうでもよくなっていた。どうしようもないことなのだ。非常線を張りいざというときのダメージを最小限に食い止めようとするのは、防衛本能だ。無防備にすべてをさらけ出すことなどできない。怖いもの知らずでいられたのは、せいぜいハタチまでだった。十代の頃はどんな辛い喪失を体験しても立ち直れた。さかんに分裂する若い体細胞が受けた傷を瞬く間に塞いでいくように、そして傷を受けた部分が前より強く再生するように、傷ついた精神も迅速に強靱に回復していった。いいことも悪いことも、悲しいことも嬉しいことも、全部がなにがしかの糧となって自分を形作っていた。
今の俺は、と中里は、後ろの啓介にばれないよう細く溜息を吐いた。今の自分は、手にしたものを失わないようにするので精一杯だ。失えない。失えば、そこに空いた傷口を塞ぐことはできない。だから余分には持たない。分相応ということを知っている。
ああそうか。中里は背中に男の気配を感じながら思い至った。
怖いのだ。手を伸ばすまいとしていたものに、手を伸ばされたことが。その手を、取ることが。
「中里」
呼び声と共に、啓介の手が背中に当てられた。返事をする前に暗い部屋の中へと中里は押し込まれ、玄関の鍵が掛けられる音を聞いた。
押された勢いで右手をついた壁にスイッチがある。部屋に明かりを入れる為に壁づたいに移動させた指先を、啓介の手が握り込んでくる。そのまま背中から抱き締められる。首筋に沿って襟の中へ潜り込んでくるように鼻先をつけ、そこから舐め上げるようにして耳に唇を当ててくる。
「なっ……お前、高橋、」
どこか切羽詰まったような力の入りように焦り、中里は振り返って男を押し退けようとした。さほどの抵抗もなく身体の向きを変えることはできた。向き合うと、その数秒だけは力を抜いていた腕に啓介は再度強く力を籠めてくる。その力を押し退けることはできず、身長差をフルに利用したキスに抑え込まれた。逃げようと腕を突っ張れば、その反作用は後ろではなく斜め下へと働く。中里が抵抗すればするほどその背骨に負担がかかり、限界を感じたときには啓介の手に支えられながら床に押し倒されていた。啓介の手は器用に中里の足からスニーカーを抜き取って玄関の土間に放った。その間も唇は離れてくれない。
「待て、なんなんだ一体!」
頭を振り合わせられた唇を無理矢理に剥がして近所迷惑も考えずに叫ぶ。自由になった腕で男の肩を押し返す。思いの外あっさりと押し返された男の顔は、暗くて見えなかった。
「なんなんだよ……」
ひとまず去ったらしい危機に大きく息を吐く。心臓が苦しい。時間にすれば一分に満たない攻防だったが、中里は肩で息をしていた。とりあえず明かりが欲しい。相手が見えないのは心許なかった。
突っ張った腕に疲労を覚え徐々に力を抜いたが、それに対する反撃は起こらなかった。中里は床に背をつけたまま両腕を顔の脇に放った。
「高橋……お前、なにがしてぇんだ」
息が苦しい。声が震えた。
ほぐれていた気持ちが、すぐに防御態勢を整える。それは習性になっている。今にも浚われそうになっているのを自覚している。
部屋は暗いままだ。窓から街灯の光が差し込んでいるが、二人で縺れ合っているところまでは届かない。中里から啓介が見えないように、啓介からも中里がどんな顔をしているかは見えていないはずだった。
啓介の手が中里の左の頬に触れてきた。表情を探るように、荒い息をあやすように、いつもより熱い掌が頬を包み撫でた。
男がどう動いてくるのか判らず身体を緊張させ続ける中里は、覆い被さる影が再び低く自分に向かってくるのを感じた。唇に息が触れた。思わず顔を背けた。代わりに、耳へと直接吹き込まれた。
「あのさ、とりあえず、俺のこと……好きになってくんねぇかな」
さすがにちょっと焦ってんだよ。啓介の声も自嘲するように震えた。足掻いてる。今朝、そうも言っていたのを中里は思い出した。
「何度も言ってる、と思うが……好きでもないヤツと、こんなことできるほど、俺ァ割り切りよくねぇし、慣れてもいねぇ」
「それは聞いた。聞いたけどよ……拒まれねぇってことが、どんだけの担保になるよ?」
右側の頬も床から掬うように包まれ、顔の向きを固定される。唇の位置を確認するように啓介の親指が撫で、続いて唇が降りてくる。今度は避けなかった。
触れたと思ったらすぐに深く角度が交わった。舌が舌に絡まってきた。中里は拒まなかった。