*第三新東京モナムール〜1*



(まるで、あの映画みたいだな・・・・・。)
ゲンドウは心の中でつぶやいた。今は亡き妻のユイとの初デートの時に見た映画、トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」。
 当時、ユイのたっての希望で見に行った映画ではあったが、その内容は彼の理解の範疇を超えるものだった。地位も名誉もある音楽家オッフェンバッハが避暑地で出会った美少年タジオに恋焦がれて、最後には海岸で彼の後ろ姿を見つめながら死んで行く。感動に頬を上気させているユイを横目で見ながら、ゲンドウは憮然としていた。
(なんだこいつは。あんなガキに、しかも男に夢中になって、後を追い掛け回すとは。分別のある大人のやることとも思えん。無様だな。ユイもユイだ。こんな映画のどこがいいのか。女の考えることはよく分からん。)
しかし、今自分が取っている行動は、あの映画と大差ないのではないか。公園のベンチで時計を見ながら、ゲンドウは考える。時刻は8時18分。もうすぐ彼が来るはずだ。ベンチから少し離れた斜め前のミルクスタンド。飛び込んでくるマウンテンバイク。グレーのリュックを背に颯爽と降りてくる美少年はどこかユイに似ていた。
 彼を初めて見てから、もう一ヶ月が経とうとしている。梅雨時にほんの気紛れで変えた散歩コース、その途中の公園に彼はいた。白銀の髪、透ける肌、何より際立つ真紅の瞳。ゲンドウは一目で魅せられた。もちろんその美貌もあったが、最大の理由は彼がユイの面影を持っていたということであろう。未だにゲンドウは亡き妻を忘れられなかったのだ。それからというもの、この公園がゲンドウの散歩コースに組み込まれ、毎日、ここで彼の少年を待つ生活が始まった。現時点で彼について分かっている事は次の二つ。1.名前はカヲルというらしい。2.制服から某有名私立中学に通っているらしい。何しろ直接話が出来るわけではないので、これ以上の情報を入手するのは不可能と言えた。ゲンドウも別にそんな事は望んでいない。ただ、朝のささやかな喜びとして、ユイに似た少年の顔を一目見たいだけだった。



「おはよう!いつものね!!」
8時20分ジャスト。ゲンドウにとって至福の瞬間が来た。カヲルというこの少年は、通学途中に必ずこのミルクスタンドに立ち寄る。
「はい、カヲル君。」
ビン入りの白牛乳がトンと置かれた。フタは既に開けてある。
「ありがとう。いただきまーす。」
その言葉が終わらないうちに、カヲルはビンを取って一気に飲み出した。その間7秒。いつもながら見事な飲みっぷりである。
「ああ、美味しかった。お金はここに置くね。」
「ちょっと、口の端に牛乳ついてるよ。」
あまり急いで飲んだので、唇の切れ目から白い雫がこぼれている。
「そう。右?左?」
「左端。」
「うん、わかった。」
そう言うと、カヲルは小首を右に傾けた。目線が左に流れ、ベンチに座っているゲンドウの方へ向く。
「!!!」
ゲンドウは慌てて持っていたスポーツ新聞で顔を隠した。そこまでしながら、まだ未練がましくカヲルの様子を覗っている。カヲルの視線は、ベンチから動かない。
(まさか・・・・・気づかれたのではあるまいな?)
それだけは避けたかった。万が一、ここで大騒ぎにでもなったら週刊誌に格好のネタを提供するようなものだし、息子のシンジにも何を言われるか分かったものではない。ただでさえ、「父さんの仕事は恥ずかしくて職業欄に書けないよ。」と日頃から邪険に扱われているのだ。カヲルはゲンドウの方を横目で見たまま、唇から流れ出た白い雫をペロリと舌で掬い取った。その仕草が妙に艶めかしい。ゲンドウの動悸が少し早くなったのは、単に自分の行為がバレそうになったからというだけではあるまい。しかし、それっきりカヲルはカウンターの方へ視線を戻し、店員と話の続きを始めた。ベンチの方へなど一瞥もくれない。
(考えすぎだったか・・・・・。)
ホッと胸を撫で下ろすゲンドウ。これでまたこの小さな幸せに浸る事が出来る。だが、そう思ったのもほんの束の間だった。
「ゴメン!明日から夏休みなんだよ。だから、暫くここへも来れないや。」
快活なカヲルの声が耳に入ってきた。
ガーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!
(そ、そうだったのか・・・・・。そういえば、確かシンジも今日で一学期は終わりだと言っていたような・・・・・・・・。)
一気に奈落の底へ叩き落とされたゲンドウ。夏休みの42日間は今の彼にとってあまりにも長く感じられた。




足取りも重く帰宅したゲンドウを待っていたのは、ネルフ書院の美人編集者葛城ミサトだった。ネルフ書院は巨大コンツェルンゼーレグループ傘下の出版社で、主に官能系の雑誌や単行本を取り扱っている。そう、碇ゲンドウ48歳、小説家。といえば聞こえはいいが、彼の連載小説の一つはその右手の中の駅売りスポーツ紙に掲載されている。つまりはそういう類の、はっきり言ってしまえばエロ小説作家であった。
とはいうもののその世界ではかなり有名で、特に凌辱物を書かせたら右に出るものはないと高い評価を受けている。そして、その過激な作品内容から、実生活でも愛人を何人囲っているとか、某SMクラブでの鬼畜プレーがお気に入りとか、ある事ない事週刊誌に書かれまくり”性豪”の称号まで頂戴していた。
だが、実際のゲンドウは女性に優しい言葉ひとつかける事が出来ない朴念仁で、亡き妻ユイ以外には後にも先にも全く女に縁がなかった。なにしろ取材で風俗店に行く場合でも、懇意にしているフリーライターの加持リョウジの同行がなければ、ロクに会話さえ成り立たないのだ。ちなみに加持とミサトは学生時代からの恋人同士である。
「碇センセイ、どこ行ってらしたんですか?もう、締め切り2日も過ぎてるんですよォ。早く原稿あげてくださらないと困ります。印刷所だってこれ以上待ってくれませんよ。」
「・・・・・・・・うむ。」
力なく答えるゲンドウ。
「早いとこ来月号の分を仕上げて、書き下ろしの単行本の執筆に移っていただかないと。シンちゃん、明日から夏休みなんでしょう?」
「・・・・・・・まあな。」
何故、ここでシンジの夏休みの話が出てくるかといえば、連載物については手書き原稿をファックスで各出版社に送ればすむのだが、書き下ろし単行本に限っては、ワ−プロでリライトしたものが要求されるからである。ほとんどのオヤジがそうであるように、ゲンドウは電脳界とは最もかけ離れたところに生息していた。自宅には最新のパソコンもあるのだが、既にシンジ専用機と化している。そんなゲンドウにワープロ入力が出来るはずはない。というわけで、単行本の執筆についてはシンジの協力が不可欠であった。
「シンちゃん、今年は快く引き受けてくれるといいですね。」
それは100%ムリだろう。去年の夏も大ゲンカの末、ミサトの必死の説得とゲンドウの誇りを捨て去った懇願でようやくOKをもらったのだ。あれから一年たったが、状況は何も変わっていない。いや、シンジが一歳大人になった分、丸め込むのはますます至難の技になったと言えるだろう。



 ゲンドウがようやく原稿を完成させた頃には、すでにシンジは帰宅していた。
「父さん、これ一応見せとくよ。」
シンジが通知表を差し出した。開いてみるゲンドウ。
(おっ・・・・・これは・・・・・。)
10段階評価で理科の7というのが最低で、あとは全部8以上。最高評価10が3科目もある。客観的に見てもかなり優秀な成績だ。
(やるな、シンジ。この頭の良さは、やはり私の血を・・・・・それともユイの方だろうか。どっちにしても将来が楽しみだぞ。)
親バカモードを全開にしてほくそえむゲンドウだったが、次のシンジの一言でその喜びも遥か彼方に吹っ飛んだ。
「分かってると思うけど、もう今年は父さんの単行本手伝わないからね。」
冷たい口調であっさりと言い放つ。
「な、何を言うんだ、シンジ。」
「それはこっちのセリフだよ。どうして毎年僕の夏休みが父さんの仕事の犠牲にされなくちゃならないんだよ。」
「お前が学校に行けるのは誰のおかげだと思ってるんだ!!!!!」
一家の主のキメぜりふで反撃するゲンドウだったが・・・・・。
「父さんがいつもキチンとアイロンのかかった着物を着て、安い費用で美味しい3度のごはんが食べられて、毎月滞りなく積立貯金が出来るのは誰のおかげなのかな。」
「うっ・・・・・・・・・・。」
こう切り返されると一言もない。執筆や取材で忙しいゲンドウに代わって家事全般を切り盛りする息子シンジこそ、今や碇家の最高権力者であった。頼みの綱のミサトは、原稿の完成にメドがついた時点で帰社しており、もうここにはいない。
「今年こそフツーの夏休みを満喫するんだ。書斎にこもってひたすらキーを叩く生活なんてまっぴらごめんさ。その上、入力する文章がアレなんだよ。父さん、中学生にエロ小説リライトさせて教育上悪いとか思ってないの?」
生意気盛りのシンジに次々とまくし立てられて、ゲンドウはすっかり沈黙してしまった。もともと口下手なのだ。
(また、昔のように職安で誰か探すしかないのか・・・・・・・。)
カヲルのことといい、今日はどうもツイてない。我知らずため息が出てしまうゲンドウであった。




 翌日、渋谷の大通りにゲンドウはいた。もちろん遊びに来たわけではない。ハローワークに求人を申し込むためである。結局、シンジの決意を覆すことは出来なかった。でも、息子がまだ幼い時には職安でリライトしてくれる人を雇って原稿を完成させていたのだ。その頃に戻っただけと割り切れば、少しは納得できた。
(それにしても・・・・・・・・・・。)
シンジは父である自分の仕事に理解が無さ過ぎる、とゲンドウは思う。
たとえエロ小説といえども、毎回綿密に取材を行い、ストーリーを練り、言葉や表現も選びに選んで執筆しているのだ。
(何も悪い事をしてるみたいに言わんでも良さそうなものだが。まあ、あれも難しい年頃だからな。)
とりとめもないことを考えながら人の波の中を進むゲンドウだったが、信号待ちの十字路で思いがけないものを見てしまった。いや、ものではなく人だが。
(まさか・・・・・いや、間違いない、あれは・・・・・・・・。)
通学時のものより2回りほど小さいポシェット状の黒リュックを背に向こうからやってくる紅い瞳の美少年。
(カヲルだ!!)
もはやゲンドウの頭の中には渋谷に来た真の目的などかけらも残っていなかった。


TO BE CONTINUED


 

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