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 *第三新東京モナムール〜12*
 
 
 屋敷内で最も日当たりの良い居間には、一流ホテルのスイートルームを遥かに凌ぐ豪華な調度品の数々が鎮座している。その中でもひときわ目立つ白いカウチの上にうつ伏せに横たわり、カヲルは本日発売の情報誌に目を通していた。気のない表情でぱらぱらとページをめくっては、退屈そうに軽くため息をつく。「あ〜あ。映画にでも行きたいなあ。せっかくの夏休みなのに毎日部屋の中に缶詰だなんて、もううんざりだよ。」
 斜め前でラタンのロッキングチェアにどっしりと腰掛けているキール・ローレンツを横目で見ながら、露骨に不満をぶつけるカヲル。
 「付き添いを撒いて、いったいどこへ行こうとしてたんだ。」
 カヲルの言葉を無視して、キールは厳しい口調で言い放つ。どうやらカヲルの外出時の行動は、逐一キールに報告されているらしい。
 「そんな1週間も前のことなんかもう忘れちゃったよ。」
 含み笑いとともに嘯くカヲルに、キールは椅子から立ちあがって詰め寄った。
 「昨日まで出張だったから、確認しようがなかっただけだろうが。全くいつまでも落ち付きのないヤツだ。少しはおとなしくしたらどうなんだ。」
 「ふふふ・・・・・・・・・でも、もし僕がいいコになって、キールの言うことをなんでも聞くようになったら、歯ごたえがなくなってつまらないんじゃないのかい?」
 確かに、自分が政財界を牛耳るゼーレグループ会長であるということを忘れ切って、対等に触れ合えるカヲルの存在はキールにとって、掛け替えのないものだった。8年前、取り巻きの反対も聞かずにカヲルを養子として引き取ったのも、怖めず臆せず自分を見返してきた真っ直ぐな瞳に心惹かれたからだ。
 
 
 
 
 「今度の視察を兼ねた香港行きには一緒に連れて行ってやるから、それまで待っていろ。」いくらワンマンで強引なキールでも、そうそう仕事がらみの外遊に自分の愛人を同伴させるわけには行かない。
 「もう、香港なんか飽きちゃったよ。それより碇先生のとこに戻りたいなあ。」
 「・・・・・・・・・・あの男のことは忘れろ。」
 苦虫を噛み潰したような顔でキールは言った。
 「それより・・・・・・・・・・。」
 言い終わらないうちに、キールはしどけない恰好でカウチに寝転がるカヲルの腰のあたりに手を伸ばそうとした。が、一瞬のうちにカヲルの右手が飛んできて、ぴしゃりと音が響くほど、容赦なくその手の甲を打ち据える。
 「何だい、この手は?」
 冷たい視線をキールに向けて、低い声でゆっくりとカヲルは尋ねた。
 「だから、それはその・・・・・・・・・・・。」
 「僕を抱きたいの?」
 明け透けに切り出すカヲルに、さすがのキールも後が続かない。自分は視察や折衝などで殆ど不在がちな上、カヲルがしばらく碇家に居候していたこともあって、最近は濡れ事どころか一つ床に入る機会すらなかった。
 「生憎だけど、今はそんな気になれないなあ。」
 わざとらしくそっぽを向いて、カヲルは淡々と言葉を続ける。
 「それよりDDRのニューバージョンのゲーム筐体買ってくれるって話はどうなったのさ。ゲーセンにも行けなくなっちゃったから、ここでプレイするしかないんだよ。200万もしない安物なんだから、ケチケチしないでとっとと注文してよ。」
 頬杖をつきながら上目使いでキールを一瞥して、こんなことまでほざくカヲルに彼の怒りが沸騰点を越した。
 「どこまでワガママを言えば気が済むんだ。」
 いきなりカヲルに圧し掛かるキール。しかし・・・・・・・・・・・・・。
 「ああ!もお、鬱陶しいなあ。」
 その叫び声とともにキールの巨体が無造作に空中に放り出された。
 「イ、イテテテ。お前は手加減というものを知らんのか。」腰とお尻をしたたかに打って、うめくキールを見下すようにカヲルはふんとあごを上げる。
 「人のことムリヤリ犯ろうとしたくせに何言ってるんだい。それにそんなことしても無駄だってとっくの昔に分かってるはずだろ。」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
 そう、カヲルに護身術を習わせたのは他でもないキール自身だった。キュートなカヲルに目をつけた輩が、自分の留守中に不埒な振る舞いに及ぶこともあるかもしれないと懸念して、ひとりでも身を守れるようにと知り合いの武術教室に通わせたのだ。最初はあまり気乗りしない様子のカヲルだったが、元々運動神経に恵まれたせいか、上達は目を見張るほど早かった。そうなると本人も楽しくなってきたのだろう。日頃の飽きっぽさに似合わず熱心に通い続け、今では師範代から五本に一本取るほどの腕前になっている。キールの目論見通り、確かにそこらへんの不届きものの毒牙にかかる心配はなくなった。けれども、肝心のキールの求めに対してまで、いろいろ理由をつけては拒絶するようになってしまった。すでに腕っ節ではカヲルに全く叶わなくなってしまったキールは、泣く泣くカヲルの好き放題にさせている。カヲルが気まぐれに自分から誘ってきたときだけ、ようやくその肢体に印を刻むことが出来るのだ。これではどちらが囲っているのかわからない。
 「ここにいるよりパソコンで遊んでたほうがいいや。」
 カヲルは素早く起きあがると、半開きの情報誌を置き去りにしたまま、扉に向かって歩き始める。
 「ち、ちょっと待て、カヲル!!」
 「どーせ、また明日からロサンゼルスに行くんだろ。さっさと仕度したらどうなんだい。」
 カヲルはにこりともせずこう言い放つと、キールを一瞥もせずに居間を去っていった。
 「・・・・・・・・・・・・・ううむ・・・・・・・・・・・・・・・。」
 取り残されたキールは唇をかみ締めながら、うめくように息をつく。カヲルにここまで勝手気侭に振る舞われても、強硬手段に踏み切れない。容赦のないシビアな判断と強引な手だてで、ゼーレグループを現在の隆盛に導いた彼ではあるが、ことカヲルに関しては、なぜか鉾先が鈍ってしまう。もちろん、カヲルにそれだけ惚れているからなのだが、さらに、心のどこかでカヲルに対して負い目を感じているといった部分も大きかった。キールとてカヲルを引き取った時から、今日の不適切な関係を目論んでいたわけではない。純粋に自分の息子として、大切に慈しんで育てようと思っていた。幼い頃から天涯孤独だった彼にとって、カヲルは初めて出来た家族だったのだ。もともと人見知りしないカヲルはすぐにキールに懐いてくれたし、実の父親のように慕ってくれた。気の抜けない厳しい談判で疲れて戻ってきた時も、カヲルの笑顔を見るだけで心が和んだ。けれども、そんな蜜月関係を崩してしまったのは他でもない自分自身だった。しかも、まだ幼かったカヲルに、力づくでそのような行為に及んだのだ。カヲルは泣きも怒りもしなかった。しかし、キールは考えるのだ。カヲルがあれほどまでに熱心に護身術の教室に通い続けるのは、もしかしたら、生涯二度とあんな屈辱は受けまいと、堅く心に誓っているからではないかと。カヲルは胸の内では未だに自分のことを許していないのかもしれない。
 
 
 
 
 
 自室に戻ったカヲルは即座にメールチェックしてみたが、今日はまだ何も届いていないようだ。この1週間、シンジは毎日かかさずメルをくれたが、ゲンドウからは何の音沙汰もなかった。シンジの説明によると、懸命の説得にもかかわらず、キーボードに触れようとすらしないらしい。わかってはいたが、ゲンドウの機械アレルギーも相当なものだ。「ちぇっ。やっぱり碇先生からはメッセージ貰えないか。」
 ディスプレイを見遣りながら、カヲルは我知らず呟く。寂しいけれど、やっぱりゲンドウにとって、自分はその程度の存在らしい。なのに、カヲルはこの屋敷に戻ってからというもの、気がつくとゲンドウのことばかり考えていた。これは、自分でも予想だにしないことだった。今までに会ったことがないタイプ。ゲンドウの売りはそこだけのはずだったのに、実際こうして離れてみると、何もかもが懐かしく思い出される。愛想のかけらもないぶっきらぼうな物言い。部屋の空気さえビリリと震える怒鳴り声。四十男にも似合わぬ焦りと照れがない交ぜになったような表情。書斎で執筆する後ろ姿の広い背中。意識を失っていた間の出来事にもかかわらず、自分を抱き上げてベッドまで運んでくれた逞しい腕の感触までうっすらと記憶していた。
 (カヲルのためならワープロを克服するくらい朝飯前だ、とか力強く宣言してくれたら嬉しいのになあ。)
 編集部の再三の勧告にもかかわらず、カヲルの後釜のリライト要員を頑として雇おうとしないことが、せめてもの救いだった。そのあたりのゲンドウの行動については、シンジが日々詳しく報告してくれる。しかし、レイのことについては、まるで無かったことのように一言も書いてこなかった。
 (逃げてるな、シンジ君。あとでメールで話し合おうとか言ってたくせに。)
 とはいうものの、冷静になって考えてみれば、ユイがこの世を去った時、シンジはようやく物心がつき始めた年齢だったのだ。ささやかでおぼろげな遠い記憶。そんなシンジがわざわざユイに生き写しの女性を捜し求めるとは考えづらい。むろん、本人も自覚がないまま、母の面影を持つ女性に心惹かれる可能性は否めないが、それだけを基準にして相手を選ぶことはまずあり得ない気がする。
 
 
 
 
 「父さん、往生際が悪いよ。」「いや、私は断じてこんなものの力を借りたりはせん。作家にとってはペンこそが仕事道具。ワープロに頼るなんて邪道なのだ。」
 「作家でもワープロで執筆してる人はいくらでもいるけど。」
 「そんな輩がいるとは嘆かわしい。自らの手で文字を記してこそ作品に対する思い入れや情熱が余すところなく伝えられるのだ。」
 「バカバカしい。雑誌に掲載される時は、どうせ活字になってるじゃないか。」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ーー;;)。」
 あまりにも的確なシンジの突っ込みに無言で答えるしかないゲンドウ。
 「カヲル君は父さんの返事を待ってるんだよ。わかってるくせに。」
 カヲルから届いたメールは、一言一句漏らさずプリントアウトして、ゲンドウに手渡している。そこにはその日の出来事やシンジからのメッセージに対するレスに混じって、もれなくゲンドウへの愛の言葉が記されていた。いつもの饒舌なカヲルに似合わず、たった一言追伸として付け加えてあるのだ。昨日は”先生にまたカヲルって呼んで欲しいな。”と書いてあった。
 「だいたい、僕はまだ父さんのこと完全に許したわけじゃないんだからね。カヲル君は父さんに責任はないって言ってたけど・・・・・・・・・・。」
 この話題に触れられるとゲンドウも弱い。たとえどんな事情があろうと、カヲルをみすみす手放してしまったという事実は消せない。だがカヲルは自分を恨むどころか、弁護までしてくれ、いきり立つシンジを宥めてくれた。その上、自分からの返事を心待ちにしているという。こんな自分のメッセージで良ければ、いくらでも書き綴ってやりたい。しかし・・・・・・・・・・・・・・・それでもなおキーボードに触れるのには抵抗があった。とにかく融通がきかない男なのだ。
 「今はこれ以外にカヲル君と連絡をとる方法はないんだよ。でなければ、僕もそこまでうるさく言わないさ。父さんの絶望的な機械オンチは身近にいる僕が1番承知しているんだから。全く、いまどきビデオの予約録画はおろか再生さえ出来ないなんてね。」
 「・・・・・・・・・・私が言った言葉をお前が入力するというのは駄目なのか。」
 「そんなインチキ許されると思う?確かに筆跡が残らないから証拠はないけど、それじゃあまりにもカヲル君が不憫だよ。」
 確かに、シンジの言う通り、ゲンドウ本人が苦しみながらも打ちこんだものでなければ、意味をなさない。
 「今日という今日こそちゃんと書いてよ。僕の作った入力マニュアルここに置いとくから。」
 ゲンドウの反応も見ずに、分厚い手作りマニュアルをドンと書斎の机に叩き付けると、シンジは小脇に抱えていたゲーム誌を開き、ファックスの隣に陣取っているスキャナに伏せて置いた。
 「何をしてるんだ?」
 「カヲル君が自由に本を買えないって言うから、新作情報のページだけでも見せてあげようと思ってさ。」
 「そんなものまで送れるのか?」
 「そのままじゃムリだけど、これをJPEGにして、添付ファイルで送れば・・・・・・・・・・。」
 ゲンドウにとってはすでに外国語の世界に突入している。
 「あ!!!!!」
 シンジの突然の叫び声にゲンドウの方が泡を食らい、うっかり机の上のペンを叩き落としてしまった。ペンはころころと机の奥の方へ姿を隠す。
 「な、何だ、突然。」
 「そうか、その手があった!!う〜ん、どうして1週間も思い付かなかったんだろう。」
 ポンと手を打って、いかにも無念そうに叫ぶシンジだったが、表情は霧が晴れたように明るい。
 「父さん、便箋にそのままカヲル君への手紙を書けばいいんだよ。そしたらこれで取り込んで画像ファイルに変換してあげる。」
 それを添付ファイルとして、送るつもりなのだろう。もちろんゲンドウには何がどうなっているのか、さっぱり理解できない。ただ、この方法を取れば、自分からのメッセージが確実にカヲルに届けられるらしい。
 (やっとカヲルに返事が送れるのか・・・・・・・・・・。)
 しかし、いざそうなってみると今度はどう表現すれば良いのかわからなかった。あまり期待させることを書くわけにはいかないし、さりとてあまりにそっけない文面も避けたい。
 (困ったな。)
 ゲンドウは単に口下手なだけでなく、紙の上ですら自分の率直な気持ちを表わすのが、大の苦手だった。心底シャイな人間なのだろう。
 「そんな長く語らなくったっていいんだよ。毎日のことなんだから。一言二言で十分さ。」
 それどころかまだ一文字も書いていない。焦れば焦るほど適当な言葉が出てこなかった。出てくるのは脂汗ばかり。こんな体たらくでよくもまあ作家なんてやっているものだと、我ながら呆れ果ててしまう。
 「父さん、とっととしてよ。僕、もう寝るんだから。」
 だが、シンジの催促も空しく、ゲンドウはこのあと延々1時間以上も悩み続けるのであった。
 
 
 
 (もう一度だけチェックしてみようかな。)寝間着代わりのダブダブのTシャツに着替えたカヲルだったが、未練を捨て切れず、またネットに接続を開始した。居間から戻ってきて、既に五回もチェックしているが、本日は何も届いていない。ただし、このメルアドを教えてあるのはシンジだけなので、碇家からメールが来なければ、一通も到着することはなかった。
 (・・・・・僕も諦めが悪いな。)
 自分でも苦笑しながら、カヲルはメールチェックのアイコンをクリックする。
 これっぽちも期待なんかしていない。この1週間、シンジからのメールはいつも同じ時刻に届いていた。すでに定時を2時間あまり過ぎている。
 (やれやれ。)
 サーバーに接続している間、それでもちょっと胸をときめかせてしまう自分が情けない。
 (あ・・・・・・・・・・。)
 ところが、メールが届いてる旨のメッセージが出たではないか。我知らず口元が緩んでくるカヲル。いつもよりてこずったが、無事メールのダウンロードは完了した。カヲルは慌てて受信簿を開く。
 (添付ファイルが二個もついてる。これじゃ時間もかかるはずだよ。いったい何かな?)
 好奇心に後押しされて、カヲルは本文より先に添付ファイルの確認に出た。片方はゲーム誌の情報ページのようだ。
 (さすがシンジ君、気が利いてるねえ。ふうん、プレステ2はDVD標準装備なのかあ。値段も4万しないで手頃だな・・・・・。)
 取りあえずポイントだけ押さえて、もう片方のファイルを開く。
 「えっ!!!!!」
 驚きのあまり、つい声が出てしまった。なんとゲンドウ直筆の手紙ではないか。碇家でリライトの作業にいそしんでいた時に、ゲンドウの個性的な筆跡はいやというほど見てきた。あまりに個性的すぎるため、解読不可能な個所も多々あって、何度ゲンドウ本人に読み方を尋ねたことか。だが、その文面と来たら、ディスプレイから飛び出してきそうな豪快な字で、ただ一言”早く戻って来い”と書き殴ってあるだけ。とても文筆業の人間が書いたものとは思えない。
 「ぷっ!何、これ?全くしょうがないなあ、碇先生は。可愛い恋人に洒落たフレーズのひとつも、プレゼント出来ないものかねえ。」
 でも、口とは裏腹にその決して達筆とは言えないゲンドウの字を見ているだけで、不思議に胸が一杯になってくる。たった七文字を何度も何度も、口の中で小さく呟いてみるカヲル。さんざん待たされた日々も、これだけで全て報われた気がする。
 (僕はどうかしているな・・・・・・・・・。)
 こんなちっぽけなことで、なぜ、ここまで満ち足りた気持ちになってしまうのか。カヲルは自分で自分がよく分からなくなっていた。
 
 
 
 TO BE CONTINUED 
  
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