*第三新東京モナムール〜14*



「はい、はい、・・・・・本当に申し訳ありません。・・・・・・・・・・只今、最後の手直しに入っております。・・・・・・・・それはもう、お待たせした分、必ずやこれまで以上のクオリティの作品をお届けいたしますので。・・・・・・・・はい、では来月には必ず。」
出来うる限り静かに受話器を置いたにもかかわらず、チンという通信音が居間中に鳴り響いた。傍らでじっと経緯を見守っていたシンジに明るく笑いかけるミサト。
「うん、これであと1ヶ月は猶予が出来たわ。」
「済みません、ミサトさん。」
「んもう、シンちゃんたら他人行儀なんだからぁ。いーのいーの、気にしないで。それにこういう非常時に無理言って待ってもらえるのも、今まで碇先生がきちんと〆切りを守ってきたからだもの。」
カヲルがローレンツ家に連れ戻された途端、あれほど順調に進んでいたゲンドウの原稿は一気に停滞してしまった。しかも、リライトが溜まっているわけではなく、肝心の内容自体がまるで書き上がらないという何とも困った状態に陥っていた。それでも、しばらくは事無きを得ていたのだが、最近、出版社のみならず印刷所や広告社までが、直で碇家に厳しい催促をして来るようになり、堪りかねたシンジはゲンドウに内緒でこっそりネルフ書院と連絡を取った。そして、報を受けたミサトがさっそく馳せ参じて、各方面に話を通してくれたと言うわけだ。
「でも、本当に助かりました。ここ2.3日、電話攻勢が凄かったから。」
居間のソファに深く腰掛けたシンジは安堵の表情を浮かべつつ、煎れ立ての熱いお茶をゆっくりとすすっている。その労をねぎらうかのように、ミサトがシンジの肩に軽く手を置いた。
「こんな事態に遭遇したことなかったものね。シンちゃん、ホントにご苦労様。」
ゲンドウの長い作家生活の中で、このようなことはかつて一度しかなかったし、それは周囲の誰もが納得する状況だった。すなわち、妻のユイが身罷った時。ネルフ書院内で当時のことを知っているのは、長年の親友たる冬月ただ一人だけだ。ユイを失ったゲンドウは、しばらく姿をくらましたあげくにただの一行も書けない状態が長く続いたらしい。
「何があったのかは知らないけど・・・・・先生だって機械じゃないんだから、時には筆が進まないことがあって当たり前だわ。少なくとも私が先生の担当になってから、これまで先生は〆切りに遅れたことはなかった。それだけでも凄いことよ。毎回、原稿が上がらなくて担当を泣かせる作家が多い中で、碇先生は常にこちらの立場を考えて、1日でも早く原稿を完成させようとしてくれるもの。」
確かに、執筆関係の事で父に当たられたり、迷惑を掛けられたりした記憶は皆無だ。今更ながら、シンジは父をちょっぴり見直していた。



「ところで肝心の碇先生は何をしてるのかしら?」
「あ、父は多分メールの返事を書いてるんじゃないかと・・・・・・・・・・。」
「えっ!碇先生がメール?あら〜ん、文明の利器をあくまで拒絶してきた先生も、とうとう時代の趨勢に屈したってとこかしら。で、お相手は誰?」
「・・・・・・・・・・えっと・・・・・・・・こないだまでリライトを手伝ってくれていた・・・・・・・・・・。」
カヲルのことを適切に説明するには非常に時間がかかるので、取りあえずシンジはあやふやな表現でごまかした。だが、その歯切れの悪い口調がミサトに疑惑の念を抱かせてしまったようだ。
「ちょっちアヤシイわねえ。もしかして、碇先生その人にお熱だとか?」
「な、何言ってるんですか、ミサトさん。そんなんじゃないですよ。」
まさか当の相手が元々は愛人と名乗って転がり込んできたとはもちろん言えない。
「だいたい、僕と一つ違いの男のコなんですから。」
ミサトの疑いを完全に晴らすべく、シンジは一般の常識人ならそれ以上妄想のしようのない事実を述べた。
「あら、そうなの。」
「そうですよ。恋愛感情だなんてとんでもない。」
「それにしては碇先生、馬鹿に彼にこだわるのね。リライトだけならいくらでも頼める人がいると思うんだけど。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
追及をかわそうとして若干の真実を述べたのに、逆に痛いところを突付かれてしまい、答える術を失って絶句するシンジ。そんな彼を苦笑混じりに眺めつつ、ミサトは朗らかに声をかける。
「や〜だ、シンちゃん。そんな深刻そうな顔しちゃってぇ。」
そしてシンジの背中をばん!!と豪快に叩いたので、シンジは思わず背筋をのけぞらせた。
「お、驚くじゃないですか、いきなり。」
「安心なさい。武士の情けでもうこれ以上は聞かないわよ。シンちゃんをこんなに困らせるなんて、私も罪な女ねえ。」
何か複雑な事情があるのではとミサトは考えたみたいだ。一見、大雑把で無神経に見えるミサトだが、その実、どんな場面でも相手の様子をこと細かに観察しており、引き際をきちんと心得ている女性だった。だからこそ気難しいゲンドウにも気に入られたのだろう。
「じゃ、名残惜しいけど、編集長がうるさいからそろそろお暇するわ。」
「あ、ミサトさん。父には会って行かないんですか。」
「ここで私が顔を出すとますますプレッシャーに成りかねないもの。碇先生、真面目だから、きっと原稿遅れてることを気に病んでると思うのよ。」
そう、こういう気遣いがごく自然に出来る女性なのだ。
「さすがに一月後にはそうは言ってられないと思うけど・・・・・・・・・・。シンちゃん、先生を励ましてあげてね。」
高めのヒールに左足を沈めながら、ミサトはシンジの顔を真正面から見据えて力強く言った。シンジも彼女から目を逸らすことなく大きくうなずく。
「ミサトさんには迷惑ばかりかけてしまって・・・・・・・・・。本当にありがとうございました。」
「や〜ね。シンちゃんと私の仲じゃない。でもリライトの彼が戻ってきた暁には真っ先に私に紹介しなさいよ。」
まさか、”彼”が自分の恋人の加持と懇意にしているとは、ミサトには知る由もない。むろん、シンジも余計なことは語らない。というより、現時点で自分が知っている”渚カヲル”はまだまだ氷山の一角に過ぎないという自覚がシンジにはあった。友人として末長く付き合っていくのだったら、もっと彼についてよく知っておきたい。だからこそ、ゲンドウとは全く別の意味で、シンジも一刻も早くカヲルに帰ってきて欲しかった。




「う〜む。」
さっきから原稿用紙とのお見合い状態が続いているゲンドウ。けれども、今、彼が形にしようとしているのは遅れに遅れた小説ではなくて、カヲルへのメルレスだった。相変わらず本来の意味のメールではなく、手書きの文面をシンジにファイル変換させて、カヲルに送付してもらっている。その上、内容はせいぜい一言二言。カヲルのスクロールしなければ到底読み切れない長いメッセージとは正反対の無骨でそっけないレス。しかし、それさえもちっとも思い浮かばない。すでに失敗作を丸めた原稿用紙で、机が半分以上埋まっていた。
(本当はこんなことをやっている場合ではないのだが・・・・・。)
ゲンドウとて原稿の遅れは十分認識している。そのために各方面に多大な迷惑をかけていることも。リライトのために人を新しく募るのは簡単だ。だが、そんなことをしてしまったら、カヲルをみすみす手放してしまった自分に対する申し訳がたたないような気がして、どうしても重い腰を上げることが出来なかった。かといって、カヲルを取り戻すためのアクションも、未だに何ら実行していない。いや、正確にいうと出来うる限りの手は尽くしたのだが、ただひとつとして満足な成果は上がらなかった。悔しいけれど、一小説家に過ぎない自分にはゼーレグループ会長たるキール・ローレンツの牙城を揺るがすことなど到底出来ないらしい。せっかくの骨折りも、単に自分の不甲斐なさを思い知らされただけだった。同じペンで勝負するのでも、加持のようなフリーのライターであれば、さしたる柵もなく自由に動けるし、アンダーグラウンドな世界にも広く通じているので、それなりのリスクを侵す気さえあれば、使えるネタを拾うことも可能だろう。しかし、取材以外にはほとんど書斎から出ることもなく、むしろ一般人と比較しても世間知らずの部類に入るであろうゲンドウにそれを望むことは到底ムリだった。誰にでも向き不向きはあるのだ。断腸の思いでカヲルを見送りながらも、出来うる限りのことをしてみようと、前向きな気持ちになっていたのだが、結局今の自分にはカヲルのためにしてやれることが何一つなかった。仮にあるとすれば、こうしてメールの返事を書いてやることくらいか。それすら一行形式のコピーの類で、カヲルの好奇心を満たすような内容のある手紙には程遠かった。
(日頃さんざん偉そうなことを言っていても、いざとなったらこんなものか・・・・・これではカヲルに大人をバカにされても仕方なかろう。)
カヲルに侮られるような大人の範疇に入ってしまった気がして、なんだか無性に自分に対して腹が立っていた。この憤りがずっと続いていて、どうしても本業の筆が進まなくなっていたのだ。思えば、かつてユイを失った時も自分への怒りと失望が綯い交ぜになった激しい脱力感に苛まれて、一行も書けなくなってしまったものだ。もちろん、世の中で一個人が出来ることなど高が知れてるし、個の力ではどうしようもないことも数限りなくある。今回だってその部類に入ることであるのは間違いない。それでも、カヲルに対して人生の先輩の貫禄を示して、彼の大人に対する偏見を打ち砕きたかった。・・・・・というのは表向きで、単にカヲルの前でカッコつけたかっただけかもしれない。好きというカヲルの気持ちには常に半信半疑でありながらも、心のどこかではそれに応えたいという感情があった。むろん、それはカヲルのことを愛してるとかいう心ばえとは全く別物で、ただただ自分に対して、ストレートに好意を表してくれたことが純粋に嬉しかったのだ。
(しかし、最近のメールにすぐにでも戻ってきそうなことばかり書いてあるのはいったいどうしたことなのだ?)
ここ数日、今までの文面とは明らかに様相が異なっており、帰ってきた後の生活やリライトの予定に関して、かなり具体的に記してあった。確かに碇家を去る時、カヲル自身には全然悲壮感は無くて、「すぐに戻ってくるから」と言い残してはいたが、それは自分やシンジに余計な心配をかけまいとする気配りから出た言葉だと思っていた。けれども、実際はこちらの考え過ぎで、カヲルには勝算があるからこそ、あのような自信たっぷりの物言いになったのかもしれない。何分にも普通の常識では測れない少年である。
(もしかしたら・・・・・・・・・・。)
が、ゲンドウはすぐにその想像を掻き消した。あまりにも他力本願で虫のいい期待が情けないというのもあったが、何より最初は大迷惑だったはずのカヲルの帰還を、これほどまでに楽しみにしている自分に気付いてしまい、戸惑いの大波に翻弄されていたからだ。



「おかえり、キール。僕、すっかり待ちくたびれちゃったよ。」
予定時刻よりやや遅れてしまったものの、無事外遊から戻ってくると、カヲルがこれ以上ないというくらいの最高の笑顔を湛えて駈け寄ってきた。挨拶の言葉も終わらないうちに、彼はキールの懐に飛び込んできて、可愛らしくしなだれかかる。前にこんな仕草をみせたのは、果たしていつのことだっただろうか。おまけに居間のテーブルの上には、カヲルが手づから庭園で摘んだに違いない真っ白なダリアの花が活けてあった。
「商談はどうだった?上手く運んだ?」
なおも笑みを絶やすことなく、甘え声で囁くカヲルにキールの表情も自然と穏やかになる。出発時の取り付く島もなかった冷淡な態度とは大違いだ。何日もひとりで放っておかれて、心細くなったのかもしれない。連れ戻されて以来、自由に外出させてもらえず、友人との夜遊びも出来ない身の上なのだ。
(これは今晩あたりはひょっとして・・・・・・・・・・。)
取らぬ狸の皮算用で、キールは今夜の閨のことを想像して、我知らず含み笑いを漏らしてしまった。カヲルを抱くのは久しぶりだ。使い込んだ皮の鞭のように撓うか細い肢体と切羽詰った掠れ声を思い描いただけで、強行スケジュールの疲れがたまっていたはずなのに、むくむくと気力が沸き起こってくる。
「ほら、これは土産だ。」
包みの中から顔を出したのは、黒のナイロン製ブリーフバック。これなら愛用のノトパソもいつでも気軽に持ち歩けることだろう。
「わあ、ステキなモバイルバッグだね。ウレシイ。ありがとう、キール。」
弾けるようにキールに抱き付くカヲル。キールの口元がますますだらしなく緩んで行く。そんな状況を横目で見ながら、カヲルはなおもキールに身体を密着させた。愛人の嬉しげな仕草に満足げにうなずくと、キールはカヲルの頭を軽く撫でてやる。まさに蜜月を思わせる二人。
「ねえねえ、僕お願いがあるんだけど。」
しかし、このセリフが耳に入った瞬間、キールの身体は硬直した。機械仕掛の人形のようにぎこちなくカヲルの方を向き直り、そのあどけない顔をまじまじと見詰める。カヲルは小首をかしげて、なんとも言えない蠱惑的な微笑を浮かべている。キールの頭の中からは、すでに先程までの濃密な期待は消え失せ、ただただ不吉な予感だけが渦巻いていた。
(最近にない人懐っこい態度についついほだされてしまったが、だいたい昔からこれが必要以上に甘ったれてきたときにはロクなことはなかった。湯水のように金を使わされるか、浦島太郎の如く時間を使わされるか、牛馬と変わらぬ扱いで労力を使わされるか、寿命も縮むほど神経を使わされるかのいずれかだ。さて、今回はいったいどれなのか・・・・・・・・・。)




「やっぱり碇先生のとこに戻りたいなあ。」
まだ、カヲルはあの男のことを諦めていないのか、とキールは苦々しい思いで一杯になった。どうして、ここまで執着するのか。
「ダメなのかい?」
キールの顔色を覗いつつ、瞳をくりくりさせて尋ねてくるカヲルの表情が馬鹿に自信ありげなところがどうも引っ掛かる。絶対、拒絶されるはずがないと顔に書いてある。
「いい加減にあの男の話はよせ。」
「だって、このままじゃ気が済まないんだもん。僕、中途半端はキライなんだよ。狙った獲物は確実にモノにしなきゃね。」
「どうしてそんなに碇にこだわるんだ。」
「うーん・・・・・・・・・・僕にもわからないや。だけど、このまま先生と縁が切れるのだけはイヤみたい。」
中途半端はキライと言いつつ、こんな曖昧な答えを返すカヲルにキールの心はどうにも落ち着かない。
「あの男は今でも死んだ妻を想って、長く一人身を続けていると聞いたぞ。」
「でも、所詮、もういない人間じゃないか。現実に僕みたいな非の打ちどころのない相手が現われれば、いくら碇先生だってきっと考えを改めるに決まってるさ。」
どこまでも自信に溢れたセリフ。今まで誰にも拒絶されたことのないカヲルだからこその発言だと言えよう。
「とにかく、僕の気が済むまでもう少し遊ばせてよ。」
「お前もしつこいぞ。あれほどあの男のことは忘れろと言っただろうが。」
カヲルも食い下がるが、キールもまた一歩も退かなかった。彼の胸の中は絶対にこのコをゲンドウに再会させてはならないという決意で満ち溢れていた。カヲルには自覚がないが、彼がゲンドウに対して抱いている感情は、過去の戯れの相手に対するそれとは全く異質のものだった。何故なら、これまでの相手に対しては、カヲルのお目当ては極めて即物的ではっきりしていた。財力・所有物・容姿・精力etc・・・・・。ゆえに、それに関して堪能してしまえば、あっさりと飽きてしまい、即座にキールの元へ帰ってきた。キールのほうもそれを承知しているからこそ、カヲルのお遊びを不承不承許していたのだ。悲しいかな、立場上、自分は四六時中カヲルの側にいてやることは出来ない。さりとて、不在中にカヲルを雁字搦めに縛り付けておくわけにもいかなかった。第一、そんなことをしたら最後、カヲルは間違いなく屋敷を出ていってしまうだろう。
(しかし、今度ばかりは・・・・・・・・・・。)
ゲンドウに対してはこれまでみたいに言葉で表わせる目的があるわけではない。仮にゲンドウを篭絡したとしても、カヲルが具体的に得るものは何もないのだ。なのに、ここまでゲンドウに拘泥するのは一体どうしたわけなのか。これは取りも直さず、カヲルがゲンドウに対して、特別な感情を抱き始めているからではないのか。たとえカヲル自身がどのように考えていようと、キールにはそうとしか思えなかった
「わかったよ。そこまで僕の言うことを聞いてくれないんだったら、仕方ないね。」
突然、凄みさえ感じさせる乾いた声音でカヲルが言い放つ。先ほどまでの心を和ませるような柔らかな笑顔はもうどこにもなかった。
「僕、最近買い物にも出してもらえなくて、パソコンくらいしかやることがないんだ。」
どうしていきなりそんな話題を振るのか、キールには理解できない。しかし、わずか数秒後には驚愕することになる。
「それが何だ。」
「ねえねえ、僕に買ってくれた別荘やクルーザーを会社の経費で落としてもいいの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
まるで魂を抜かれたようにキールの顔から一切の表情が消え失せた。
「ああいうのを”二重帳簿”っていうんだね。ふふふ・・・・・実物を見たのは初めてだよ。いい勉強になったかな。」
あっけらかんとこんな風に繋げて、カヲルは意地悪くキールの様子を観察している。唇がワナワナと震えて、何事かうめいているようではあるが、それは言葉にはならなかった。
「他にもいろいろインチキしてたねえ。やっぱキレイ事だけじゃ、世の中渡っていけないんだね。よ〜くわかったよ。」
一体、どうやってゼーレグループのメインコンピューターにハッキングしてきたのか。いや、カヲルだったらそれくらいやりかねないと妙にキールは納得してしまった。気まぐれで飽きっぽいカヲルだが、確固たる目的を持ってそれに集中したときの底力は半端じゃない。護身術だって常人では考えられないほどの上達ぶりを示したではないか。
「もし、これが世間にばれたら大変なスキャンダルだよねえ。」
すでにこの時点で自分の負けだとキールは観念した。要領のいいカヲルのことだ。この証拠データは抜かりなく、どこか安全な場所に保管してあるに違いない。そして万が一、色良い返事が貰えなかったときには、それを国税局なリ然るべき場所に転送する手はずも整えているのだろう。
「・・・・・・・・・・わかった。お前の好きにするがいい。」
唸るようにこう漏らすのが精一杯のキールの苦渋の表情を見遣りながら、カヲルはにっこりと笑って右手のひらを差し出した。
「何だ?」
「クレジットカード、貸してよ。碇先生の収入じゃ物質的なことにはまるっきり期待できないもんね。欲しいものを我慢する生活なんてまっぴらゴメンだよ。」
(・・・・・・・・・・やっぱり、こうなってしまったか。)
自分の予感が最悪の形で的中したことを悟り、思わず自虐的な笑みさえ漏らしてしまうキール。ここまで傍若無人にされても、すんなりと許してしまうほど、彼はカヲルに対して甘かった。もっとも、その甘さは愛人に対するものというよりも、掛け替えのない一人息子への溺愛から出た面も微妙に混じっているのだが。



「さ〜てと、これで準備万端。唯一の不満だったお金の問題も解決したし、あとは碇先生の胸の内からとっとと死んだ奥さんのことを追い出して、僕で一杯にするだけだね。あはははは。」
ちゃっかりカードを手中にしたカヲルの改心の高笑いが、キールの耳に必要以上にけたたましく響き渡る。だが、彼は実のところこんな風に考えていた。
(そう上手くいくものか。碇はあらゆる意味で、今までの相手とは違うぞ。)
拠り所となる価値観はまるっきり正反対だし、自分に従わない疎ましい存在ではあるが、ゲンドウの性根のしっかりしたところにはキールも内心一目置いていた。亡き妻への一途な愛情にはむしろ好感さえ抱いている。そんなゲンドウがどこか遊び半分のカヲルの手練手管に絡め取られるはずがない。いや、そうあって欲しい。これはカヲルを愛する一人の男としての切なる願いだった。それでも、彼の一番近くにいる者として、キールは不安を禁じえない。現在のカヲルの気持ちは、まさに恋愛に発展する可能性を秘めていた。けれども、それならそれで構わないような気もする。いっそ、それを自覚したカヲルが手ひどく振られればいい。それはもちろん加持が目論んだような、カヲルの将来を見据えた動機からではない。初めての真剣な思いが通じることなく、打ちひしがれるカヲルを見てみたいという不謹慎な願望もあったし、その時こそ真打ちとしての自分の出番ではないか。
(こうなったからには止むを得ん。お前のお手並み、じっくり拝見と行くか。)
カヲルに、というよりも、自らに言い聞かせるようにこう低く呟くと、静かに息を吐くキールだった。


TO BE CONTINUED


 

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