*第三新東京モナムール〜16*
「先生。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「碇先生。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「先生ったら!」
再三の呼びかけにもちっとも応じないゲンドウに業を煮やして、カヲルはテーブルの下でその向う脛を思いっきり蹴り飛ばした。
「痛っ・・・・・うぐっ、イタタタタ・・・・・。」
激痛に飛びのいた拍子にテーブルで膝をしたたかに打ち付けてしまい、二重の痛みにのたうち回るゲンドウを冷ややかに見詰めるカヲル。
「ふん。さっきからボンヤリしちゃって。そんなにあの娘のことが気になるのかい。」
「戻った早々酷いヤツだな。痣になってるぞ、ほら。」
あまりの苦痛にやや涙目になりながら、ゲンドウはぶつけた個所にフーフーと息を吹きかけつつ毛脛をさすり続ける。
「酷いのは先生の方じゃないか。せっかくあなたのためにこうして帰って来たのに他の女のことばっか考えて。しかもユイさん生き写しのね。」
「そ、それはだな・・・・・・・・・つまり・・・・・・。」
カヲルを納得させうる上手い言い訳を思案するゲンドウだったが、元より口下手なこのオヤジに即興で気の利いたセリフが浮かぶはずもない。
「父さん、無駄な抵抗はよしたら。どう考えても父さんの方が悪いよ。」
先程までの楽しい喧騒が嘘のように、それなりの静けさを取り戻した碇家。後片付けの締めくくりに食器を拭いていたシンジにも、居間でのゲンドウとカヲルの会話が聞こえたらしい。最近多いカウンター式の台所なので、家事をしていても二人の様子は丸見えである。
「シ、シンジ・・・・・・・・・。」
息子にまで非難されて、ゲンドウはがっくりと肩を落とした。打撲の痛みも激しくなる一方だ。
「カヲル君が一旦キール会長の屋敷に帰らざるを得なかったのだって、父さんがだらしなかったからだろう。そんな父さんのことを責めもせず、しかも自力でこの家に戻ったっていうのに、ロクに話もしないそっけなさじゃカヲル君が怒るのも当たり前さ。」
そのことに触れられるとゲンドウも辛い。結局カヲルのために何ひとつしてやれなかったのだから。けれども、ゲンドウは決してカヲルの帰還に感激していないわけではない。それどころか、また以前のように自分の書斎でカヲルがリライトしてくれる光景を思い浮かべるだけで、抜け殻のようだったこの身に再び力が漲ってくるのを感じる。アイディアも沸騰時の泡のように次から次へと涌き起こっており、ここしばらくの絶不調を完全に払拭していた。きっと今夜からは遅れまくっていた原稿もバリバリ進むことだろう。ただ、照れもあり、それを面と向かってカヲルには言えないだけだ。
(だが・・・・・・・・・・。)
レイという少女を見た時の衝撃はもはやそれとは別次元のものだった。カヲルの帰参が現実世界の喜びだとすれば、レイとの遭遇はどこか浮世ばなれした夢の狭間の出来事に思えた。今でもまだ信じられない。ゲンドウすら会ったこともなかった少女時代のユイが目の前にいたのだ。その面影を少しでも長い間抱いていたかった。所詮この場限りの幻だとゲンドウとて自覚はある。彼女は息子の同級生。自分とこれ以上の関係が出来るはずもない。日が経つごとに徐々に色褪せてしまうものだと分かっているだけに、なおさら一瞬の記憶を大切にしたかったのだ。
「さ、碇先生、とっとと書斎に戻って仕事しなよ。すでに単行本の〆切り過ぎてるんだろ。皆、シンジ君から聞いてるんだから。」
「・・・・・・・・・む・・・・・・・・・。」
ゲンドウがなおも歯切れの悪い返事しかしないので、カヲルはますます不機嫌になっている。そんな彼らの様子を笑いを噛み殺しつつ、台所から眺めているシンジ。
(そろそろカヲル君のキツ〜イ一発がありそうだぞ。)
シンジにそう推測させるくらいカヲルの表情は険しく尖っていた。
(薄々気付いてたけど、ここまで未練がましいオヤジだとはね。これはちょいと荒療治に出て、目を覚ましてやらなくちゃ。)
テーブルに肘をついて、顔の前で両の手を組みながらなおも虚空を見渡して、物思いに耽るゲンドウにカヲルは強烈なジャブを食らわさんと口を開いた。
「碇先生、いくら綾波さんのことを考えたってムダだよ。」
ピクリ、とゲンドウの眉が上がった。それはカヲルの挑発に反応したわけではなく、”綾波”という単語に聞き覚えがあったからだ。
(あの少女は綾波というのか。待てよ。前にこの苗字をどこかで聞いたような・・・・・・・・・・その時も、確かカヲルがいて・・・・・・・・・・・。)
しかし、ゲンドウがそれを思い出す前に、カヲルから決定的な一言を聞かされてしまった。
「綾波さんはシンジ君と付き合っているんだから。二人はらぶらぶなんだよ。」
「な!!」
驚きのあまり、ゲンドウの左肘が大きくテーブルに弧を描いて滑り、引き摺られるように体勢まで崩れてしまった。ほぼ同時に流しでガラスの食器が落下したような音が派手に響く。
「ち、ちょっと、カヲル君。何言ってるんだよ。」
片付けを中断して、シンジが慌てて居間に駈け込んできた。取り乱す息子の様子を見てゲンドウはようやくその名を思い出す。
(そうだ、確かシンジがキャンプに出発するときに聞いた名だ。シンジの奴は彼女に好意を持っているらしいとカヲルが言っていたな。)
いつの間に彼女といい仲になってしまったのか。しかも父親たる自分に一言の報告もないのはいったいどうしたことなのか。ほんの数分前の和やかな面持ちはすっかり消え失せ、ゲンドウは完全に頑固親父の顔になっていた。
「それは本当なのか!?」
「もちろんさ。現に今度の日曜だって仲良くデートなんだよ。」
「何だと!!!!!」
椅子を引き剥がすようにずいっと立ちあがったゲンドウのこめかみには完全に怒張が浮いている。だが、シンジにしてみればまるっきり身に覚えのない交際の事実を述べられていい迷惑だ。
「カヲル君、どうして僕が綾波と付き合っていることになるんだよ。しかも日曜にデートだって?父さん、これは何もかもカヲル君の口から出任せだからね。」
「シンジ君、隠したっていずれはばれることなんだから、潔く自白しちゃった方がいいんじゃないの。あんなにメールでのろけてたくせに〜。」
いけしゃあしゃあと嘘八百を並べたてるカヲルにシンジは呆れ果てた。その上、我が父の顔色を覗うに、悲しいかな、完全にカヲルのデタラメに引っ掛かっている様子ではないか。
「・・・・・・・・・・シンジ、お前はまだ中2だろう。男女交際なんて早すぎる。そんなヒマがあったら勉強せんか!!」
「だから違うって言ってるだろ!父さんは自分の息子よりカヲル君の方を信用するのかい。」
「いや、今考えればキャンプの時からどうも怪しいと思っていたのだ。旅行嫌いのお前があんなにいそいそと出かけていったのはあの娘のためだったんだな。あの娘がユイに似てたから惚れたのか?」
アンタにだけは言われたくない、と心の底からむかつくシンジだったが、この状態になってしまったゲンドウに対して、何を反論してもムダというのは長年の経験からよく分かっている。でも、こんな聞き捨てならない表現を使われて、カヲルが黙っているわけがなかった。
「偉そうに。先生にそんなことをほざく資格なんかないよ。」
「何だと。」
「ほんの前まであんなに綾波さんのことばっか考えてたくせに。でも、どんなに瓜二つでも綾波さんは綾波さんでユイさんとは違うんだからね。」
「お前に言われんでもそんなことはわかっとる。」
「わかってないよ。僕のことだってユイさんに似てたから追いかけまわしてたくせに。」
こう突っ込まれてしまうと、もはやゲンドウには一言も返す術はない。けれども、この指摘によって、ゲンドウはこれまで自身の心中でもやもやしていたカヲルとレイ、それぞれに対する己の感情が一気にクリアになるのを感じていた。
(そういえば・・・・・・・・・・。)
カヲルを一目見た瞬間、ゲンドウはシンジと同年代の、しかも少年だったにも関わらず、絶対に偶然の出会いではすませたくないという激情が自分の体中を駆け巡るのを感じた。だからこそ、出不精のオヤジが執筆を中断してまで、一日も休まず白金台公園に通い詰めることが出来たのだ。むろんこれをきっかけに深い縁が繋がるなんてこれっぽちも期待してなかったし、毎日カヲルの仕草を見ていられるだけで良かった。ほんの数分のために、白金台公園へ出向いていくことも全く苦痛にはならなかった。しかし、レイには端からそこまでの思い入れはない。確かにユイに生き写しだし、出会った時のインパクトはカヲル以上だったかもしれない。なのに、どうしてももう一度会いたいという強烈な意志の力が沸き起こってこないのだ。世の中にはこんなにユイにそっくりな少女もいるのだ、良い夢を見せてもらった。これがゲンドウの偽らざる気持ちだった。だから、ここ数日は思い出に浸るかもしれないが、多分それだけだ。その証拠にカヲルからシンジがレイと付き合っているという話を聞かされても、ゲンドウにはあくまでもシンジの父親としての反応しか出てこなかった。仮にレイが他の男のものだとしても、それに対する嫉妬や焦りなどは皆無だ。だったら、カヲルがキールの愛人だということを知った時のほうが、よほど衝撃は大きかった。今でも胸のどこかがちりりと焦げたような気がしている。
「とにかく息子の男女交際くらい認めなよ。年頃になっても誰にも相手にされないよりはいいだろ。」
カヲルは何の気なしに言い放ったのだろうが、後半部分はゲンドウの弱いところをぐっさりと直撃した。青春時代まるっきりもてた事がなかったゲンドウの頭の中で、カップルご用達のバレンタインやクリスマスの寂しく情けない光景が昨日のことのように蘇ってくる。確かに息子にはこんな惨めな思いをさせたくない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
あれこれ気持ちが交錯したあげく、すっかり返答に窮して沈黙で閉めざるを得ないゲンドウ。だが、カヲルに好き放題に事実を捏造されてシンジの方は収まらない。
「カヲル君、いい加減にしてくれよ。」
シンジは完全にいきり立っている。
「まあまあ、ああでも言わないと碇先生が目を覚まさないと思ってね。」
「目を覚ますどころか僕だけ怒られてしまったじゃないか。しかも、本当に綾波と付き合ってて叱られるならまだしも、ただ怒鳴られるだけなんて最悪だよ。」
「ふふ、それだったら君が頑張って、本当に綾波さんとステディな仲になればいいじゃないか。」
「・・・・・・・・・・ひ、他人事だと思って簡単そうに言わないでよ。」
カヲルの言葉にも一理あるだけに、これっきりシンジもあとが続かない。
「先生、こんなことしてる場合じゃないよ。さ、お仕事、お仕事。」
さっそくカヲルに主導権を握られてしまった碇父子。今では、彼の帰着に微かな落胆すら感じているのだった。
カヲルの存在でゲンドウの気持ちも落ち着いたのか、これまで一行も書けなかったのが嘘のように原稿は次々と上がっていった。これなら、あと10日余りで全編完結させることも可能だろう。
「ふうん。今までスランプだったなんて信じられないね。やっぱりすぐ隣で僕が仕事していると嬉しい?」
さっきまでの膨れっ面はどこへやら、執筆中のゲンドウの横顔を見詰めながら暖かい笑みさえ浮かべて語りかけるカヲル。もっともゲンドウの書斎の机に性懲りもなく飾ってあったユイのポートレートは目に入るなり、押入れに乱暴にほっぽり込んでいたが。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ゲンドウは答えない。ただ、カリカリとペンを走らせる音だけが静まり返った部屋に響き渡る。しばし静寂の時が流れ、カヲルも再び入力作業に戻ろうとしていた。
「カヲル。」
いきなりゲンドウの方から声をかけられて、カヲルの顔が溢れる期待にぱあっと輝く。ゲンドウを真っ直ぐに見返す紅い瞳の彩りが眩しい。
「日曜のことだがな。」
「日曜って。」
「・・・・・・・・・・ほれ、あの、シンジがデートするんだろう?」
「はあ?」
「さっきお前が言っていたではないか。」
なんとまあ、ゲンドウは怒りに任せて並べたてたカヲルの発言を完全に信じ込んでいる。でも、カヲルにとってはすでに関心のかけらもないことだった。
「それが何なのさ。」
「どこでデートするのだ?」
「どうしてそんなこと聞くの。」
受け答えしつつ、だんだん不穏な予感で胸が一杯になってくる。息子に対して妙に過保護で心配性のところがあるゲンドウだけに、とんでもないことを企てているのではなかろうか。
「あのシンジが女性と二人きりでデートなんぞ心配でならん。」
「・・・・・・・・・・碇先生、まさか・・・・・・・・・・・。」
もうカヲルには容易に次のセリフの想像がついた。
「私もついて行くぞ!!」
やっぱり、やっぱりこう来たか、とカヲルはゲンドウのあまりの分かり易さに脱力する思いだった。
「・・・・・・・・・・先生、マジで言ってるね(ーー;;;;;)。」
「当たり前だ。何か不祥事があってからでは遅いのだ。」
「自分の息子を信用しなよ。」
「いや、万が一と言うことがある。ただでも今の中学生はマセているからな。」
「シンジ君は大丈夫だって。」
それ以前にデートの約束など最初から存在していないのだ。だけど今更真相をばらすわけにはいかない。ここはどうにかしてゲンドウにこの無謀な決意を撤回させるほかはなかった。
「私とて何も二人の邪魔をするつもりはない。影からそっと見守るだけだ。」
要するにかつて渋谷でカヲルを尾行した時のように、シンジ達の後をつける腹づもりらしい。でも、影も何もいまどき着物着用の長身ヒゲオヤジはどこを歩こうが目立ち過ぎなのだ。
「よしなよ、そんな野暮なこと。昔から言うだろ、人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られてなんとやらって。だいたい先生ひとりで若者の街をぶらついてたら丸わかりだって。」
投げやりに付け加えたこの一言が運命を分けた。
「・・・・・・・・・・ううむ。確かにそうだな・・・・・・・・。そうだ!!カヲル、一緒に来い。お前と一緒なら少しは隠れ蓑になるはずだ。」
はっきり言ってなるはずがない。それどころか誰もが振り返らずにはいられないミスマッチなカップルとして、思い切り皆の注目を集めるだけだ。しかし、カヲルはこのとき閃いた。
(これってダブルデートじゃん。ラッキー♪)
「どうだ?ちょっとくらいなら欲しいものを買ってやってもいいぞ。」
「もちろんOKだよ\(^O^)/!!」
ツーショのお出掛けに目が眩んだカヲルは、手のひらを返したようにゲンドウの申し出を軽々しく引き受けてしまったが、このままでは絵に描いた餅でしかない。なにしろメインのはずのシンジとレイのデートが存在しないのだ。けれども、せっかく手にしたゲンドウとの外出のチャンスを逃すわけには行かない。
(これは二人のデートを嘘から出た真にするしかないね。他人の色恋沙汰に口を挟むのは僕の趣味ではないけど、ま、協力するんだからいいやね。)
息子の不純異性交遊を心配するあまり、デートの監視を決意する過保護丸出しの勘違いオヤジと、己の恋路のためだけに善人面してデートのセッティングを目論むスーパー自己中性悪少年。シンジの淡い思慕の行方はすっかり前途多難の様相を呈していた。
TO BE CONTINUED
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