*第三新東京モナムール〜20*



旅行なら今まで数え切れないほどして来た。並みの観光ガイドなど読む必要もないくらい数多の国の名所を巡ったし、普通の人では一生かかっても体験できないような珍しい出来事にもいっぱい遭遇した。けれども、今度の旅行ばかりはカヲルにとって特別だ。
(碇先生との水入らずの温泉旅行もいよいよ来週かあ。)
実際はネルフ書院の慰安旅行のみそっかすに過ぎない立場なのだが、カヲルの頭の中ではいつのまにかゲンドウと二人きりの婚前旅行と化していた。超高級ホテルや皇室御用達名門旅館に慣れ切っているカヲルには、むしろ一般の温泉旅館は新鮮に感じられたし、キール・ローレンツの名前が枷になることもなく、勝手気侭に振舞えることも魅力だった。もっとも、これまでだってキールから見れば、カヲルは見事にワガママ三昧やりたい放題で、常に彼の胃痛や頭痛の種となっていたのだが、おめでたいことに本人にはまるっきりその自覚はない。それどころかもっともっと自由に動きたいと不満さえ抱いていたのだ。
(土日は先生と楽しく旅先での計画でも練ろうかな。)
賑やかな商店街を足取りも軽く通り過ぎ、カヲルはまっすぐ碇家へ向かう。今日はゲーセンへの寄り道もなしだ。9月とはいえ、日中はまだまだ蝉の泣き声が耳に煩いし、ちょっと動いただけで汗ばんでくる。そのくせ、夜になると聞こえてくるのは秋の虫たちの合唱ばかり。こうして徐々に季節が移り変わっていくのだろう。
(今回の旅行で既製事実さえ作ってしまえば、先生も観念して二度と無駄な抵抗はしないだろう。)
一人うんうんと納得して歩いているうちに、気がつけばもう見慣れた門の前だ。勝手知ったる他人の家、カヲルはノックもせずに勢いよくドアを開け放った。
「ただいま〜。」
さっさと上がって、居間でお菓子の一つもつまもうと目論んでいたカヲルだったが、珍しくシンジが玄関に顔を見せる。
「あ、カヲル君、途中で父さんに会わなかった?」
「えっ、碇先生出かけたのかい?」
「出かけたも何も、僕が帰宅した時にはもういなかったんだ。」
シンジの学校の方が遥かに家に近いので、特別の用事でもない限り、当然、帰宅時間もカヲルよりシンジの方が先である。
「何の言付もなし?」
「まあ、気分転換に駅前の本屋でも覗いてるのかもしれないね。原稿に詰まるとよく逃げ込んでるみたいだし。」
駅まで出れば、他にいくらでもオトナの遊び場があるだろうに、こんな場所でしか気晴らしが出来ないところに、ゲンドウの生真面目さが良く表われている。
「ようやく単行本が完成したと思ったら、また新しい連載だもんね。さすが人気作家ってとこかな。」
「それにしてもいつもは僕の帰宅を待ってから外出するんだけどなあ。よっぽど切羽詰まってたのかな。」
「どうする?」
「どうするったって、父さん携帯も持ってないし連絡の取りようがないよ。まあ、夕食までには戻ってくるさ。」
ゲンドウの機械拒否症はパソコンのみならず携帯電話にまで及んでいた。会話だけで場を持たさなければならない電話自体が大の苦手なのに加えて、場所・状態を問わず捕まえられてしまうのが、見えない鎖に繋がれてるようで鬱陶しいらしい。もちろん(ゲンドウからすれば)複雑な操作方法にも全くついていけないのであるが。



「帰って来ないじゃん。」
「おかしいな。外食するならするで連絡が入るはずだけど。」
7時を過ぎてもゲンドウが帰宅する気配はなかった。さすがにシンジもカヲルも心配になってくる。長年、作家でありながら、一般の常識人の感覚を失っていない反面、世間知らずで抜けてるとこがあるだけに、アヤシイ犯罪に巻き込まれる可能性がないとは言えない。
「警察に届けた方がいいかなあ?」
シンジが心配そうに提案するが、そのときカヲルにたったひとつだけ心当たりの場所が閃いた。
「そうだ、ネルフ書院に連絡してみないか。人見知り、場所見知りの先生が長滞在するところなんて他にないもん。」
「なるほど!冬月のおじさんと話が弾んでついつい連絡を忘れたのかもしれないよな。そう言えば、前にもあったあった、そんなこと。」
「よし、さっそく電話しよっと。」
素早く子機を手に取ると、カヲルはピ・ポ・パとリズミカルにボタンを押す。柄にもなくやや神妙な表情で反応を待つカヲルの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間キッと釣り上がった。それに連れてほっぺたもパンパンに張り切っているではないか。
「ど、どうしたんだよ、カヲル君。父さんは?」
カヲルは無言のまま、子機を乱暴に突き出した。耳を傾けるシンジ。
”はい、ネルフ書院です。まことに勝手ながら○○日まで社員一同慰安旅行に出かけております。お急ぎの方は○○○-×××-△△△△まで・・・・・・・・・・・”
無機質な留守電の声がエンドレスに耳に飛び込んでくる。シンジは慌てて父の書斎に駆け込んだ。無論カヲルも後に続く。
「旅行カバンがない。」
さらにタンスの中も確認してみる。乱雑に荒らした跡。もう間違いない。ゲンドウはカヲルのみならず、息子のシンジまで置き去りにして、ひとり慰安旅行に出かけてしまったのだ。そこまでしてカヲルと一緒の旅行を避けたかったらしい。しかし、ゲンドウのカヲルの性格に対する認識はイマイチ甘かった。こんな仕打ちを受けてカヲルがそのまま引き下がるわけがない。千倍返し、万倍返しが待っているだけだ。
「・・・・・・・・・やってくれたね、碇先生。」
すでに完全に目が据わっている。
「シンジ君はともかくとして、大切な恋人の僕を置いていくなんて絶対に許せない!!」
「・・・・・・・・・・・・・碇ゲンドウの実の息子は僕なんだけどな。」
「子供より恋人の方が大事に決まってる!!」
「本当に大事だったら日程まで誤魔化してこっそり出かけたりしないと思うけど。」
横目で冷ややかにカヲルを眺めつつ、シンジはそっけなくこう返す。第一、客観的にみて、まだ恋人の”こ”の段階にすら漕ぎ着けてないカヲルなのだ。
「照れてるだけだよ。確かに年に似合わずカワイイとは思うけど、仕出かしたことは許せないね。」
「許せないって言ったって、どうするんだよ。帰ってから追及するのかい?」
「そんな悠長なことするわけないだろ。さ、シンジ君もとっとと仕度して。」
「仕度?」
「そうだよ、これから伊豆まで出かけるんだから。」
「っていうことは、まさか・・・・・・・・・。」
「もちろん追いかけるのさ。先生の思い通りになんかさせないよ。世の中甘く見ているオヤジに現実の厳しさを叩き込まなきゃ。」
そのセリフはどちらかといえば、君に相応しいのでは・・・・・・・と喉まで出かかったシンジだったが、カヲルと同伴したくないがために自分まで犠牲にしたゲンドウのやり方には腹が立ったので、ここは素直にカヲルに便乗することにした。




家事のエキスパートのシンジが手際良く着替えや持ち物を揃えている間に、カヲルは切符を手配したり、旅館に電話して部屋を確かめたりと手分けして準備を整えたので、二人は時間のロスなく出発することが出来た。なまじ遅い時間だけに特急の切符も売れ残っており、この調子だと10時前後には目的地に着けそうだ。
「やれやれ、とんだことになったなあ。」
「まさか碇先生があそこまで大胆な作戦にでるとはね。」
だが、これではもはや逆効果であろう。旅館に到着したカヲルが人目もはばからずゲンドウを吊るし上げる様子が、シンジにははっきりくっきり浮かんだ。
「もう、頭来たのとここまで走りっぱなしだったのとですっかりお腹空いちゃったよ。」
ゲンドウの行き先がわかった瞬間、速攻で用意して家を飛び出したのでふたりとも晩ご飯さえ食べていないのだ。落ち付いたら一気に空腹が押し寄せてきた。
「中途半端だけど小さめのサンドウィッチでも買おうか。」
「うん。今日の宴会には間に合うかどうか微妙だもんね。」
言い終わらないうちにカヲルは素早く立ち上がって、弁当や飲み物のワゴンを探しに駆け出そうとしたが、あまり急いだので通行人とぶつかってしまった。
「きゃっ。」
「イテッ。」
「ほら、カヲル君、よそ見してるからだよ。あ、すみませ・・・・・・・・・えっ、ええっ!?あ、綾波?????」
「・・・・・・・・・碇君・・・・・・・とおまけ・・・・・・・・・・・。」
明らかにこちらの不注意なので、先に詫びを入れようと思い、向き直ったシンジの前にいたのはなんとレイではないか。
「おまけってねえ・・・・・・・・。」
不満げにぼやくカヲルを尻目に、シンジとレイは早くも熱く見詰め合っている。とはいうものの、お互いに照れが先に立って、言葉がちっとも出てこない。レイはもちろんのこと、シンジも父ほどではないにせよ、決して話上手なほうではないし、想像もしなかった状況に対する驚きと戸惑いもあるのだろう。彼らにとって、今は嬉しさよりもこっちの感情の方が遥かに勝っていた。
「レイ、どうしたの?」
「あ・・・・・・・・・・叔母さん。」
すぐ後ろの席から顔を見せたのは、シンジも見覚えのあるレイの叔母だった。ゲンドウと大して変わらない年齢のはずだが、余計な贅肉はついてないし、シワも殆ど目立たないし、とてもそうは思えない。しかも、いかにも教養がありそうな知的な雰囲気の美人だ。彼女の隣にもうひとり20代後半くらいの金髪の女性が座っており、これまた凄い美人だった。しかも知的な面持ちに似合わぬ肉感的なプロポーションの持ち主で、その豊満な胸元についつい視線が引き寄せられてしまう。美女ふたりの面影はどことなく重なるところがあり、して見ると、おそらく彼女たちは実の母娘なのであろう。
「碇君が・・・・・・・・・・。」
レイが答えあぐねているうちに、熟女ふたりがやって来て、シンジとカヲルの方を覗き込んだ。平然としているカヲルと訳もなくなぜかオタオタしてしまうシンジ。
「あら、もしかして二人ともレイの同級生?」
「碇君だけ。」
カヲルを拒絶するかのようなレイの冷ややかな言い方にシンジまで苦笑している。けれども本当にカヲルのことを嫌っているわけではなく、むしろ多少の親しみがこもったキツイ表現のようにも感じられた。シンジに対するそれとは全く違った意味で、レイはカヲルに特別な感情を抱いているようだ。それは初めて出会った自分と同じ色の肌と瞳を持つ相手への無自覚な興味なのかもしれない。



「あ、初めまして。僕、綾波・・・・・さんと同じクラスの碇シンジです。こっちは今我が家に同居している遠い親戚で渚カヲル。」
「こんにちは。綾波さんのお母さん?とお姉さん?ですか。僕、渚カヲルです。よろしくお願いします。」
外面と要領の良いところを遺憾なく発揮して、カヲルは百万ドルの笑みを湛えながら、彼女たちに挨拶した。
「私はレイの叔母の赤木ナオコ。こっちは娘のリツコよ。いつもレイがお世話になってます。碇君にはキャンプでもいろいろ親切にしていただいたのに、このあいだはお父様にまで散財させてしまって・・・・・・・・・。」
「そんな。元はと言えばこちらの不手際で迷惑をかけたんですから。」
もっとも、不手際の元となった当の本人はこの会話が耳に入ろうと、何事もなかったようにケロリとしており、それがシンジにとってはどうにも納得いかない。
「初めまして。碇君、渚君。」
「カヲルでいいですよ。」
「ぼ、僕もシンジで構わないです。」
妙齢の美女を前にして、シンジは未だに緊張が解けないようだ。
「あら、そう。それにしてもこんな時間にあなたたち二人だけでいったいどうしたのかしら。」
確かに中学生が特急列車に乗って出かける時間ではない。
「そ、それはそのう・・・・・・・・・。」
こういう時はカヲルの出番だ。
「碇先生・・・・・・・・・いえ、シンジ君のお父さんの懇意にしている出版社の慰安旅行で伊豆に行くところなんです。僕たち、学校があったんで出発が遅れたんですよ。」
半分でっち上げの状況説明を、ごく自然に澱みなくやってのけるカヲルの横顔を眺めながら、こいつ詐欺師でも食べていけるんじゃ・・・・・と、シンジはぼんやり考えていた。
「あ、綾波たちは?」
「・・・・・・・・・伊豆に行くの。」
「本当は夏休みに行くはずだったんだけど、私もリツコも仕事が忙しくてついつい今日になってしまったのよ。」
「でも、今頃の方がどこでも空いていて良かったかもしれないわよ。」
「で、綾波たちはどこの旅館なんだい?」
「・・・・・・・・・荒井旅館・・・・・・・・・・。」
思わず顔を見合わせるカヲルとシンジ。
「僕たちも同じとこだよ!!」
皆の手前、なんとか平静を装おうとするシンジだったが、それでも小躍りせんばかりに浮かれている様子がひしひしと伝わって来る。日頃に似合わぬ大声での絶叫だけでも、彼の只ならぬ心理状態は容易に見て取れた。
「偶然ってあるものなんだね。」
「せっかくだから、もし良かったら旅館まで一緒に行きましょうよ。」
「え、で、でも。」
「シンジ君、ここはお言葉に甘えようよ。」
邪気のない笑みを浮かべつつ、カヲルはこれで旅館までのタクシー代は浮いたななどと不謹慎なことを考えている。この行程で出費したお金は、あとで全額ゲンドウに請求しようと目論んでいたのだが、自分の懐さえ痛まなければ、誰が出したって同じである。ちなみに今だって使っているのはキール会長から預かってきたカードだったりする。




「綾波も2泊3日の予定なんだろ。」
こくこくとうなずくレイ。今の状態は窓際にカヲルを置いて、その隣にシンジ、さらにその向かい側にレイとリツコが座っている。ナオコは若者に気を使って、真後ろの席で仮眠を取っているようだ。
「しかし、綾波さんの家族は美人揃いだね。」
「ふふ、子供がお世辞なんて言うものじゃないわよ。」
カヲルがハムサンドをパクつきながら漏らした率直な感想を耳にして、リツコは艶やかに笑った。
「いや、お世辞なんかじゃないですよ。もし父さんがいたら、照れて話も出来なかっただろうな。」
「シンジ君のお父さんって碇ゲンドウ先生ね。」
「はあ、まあ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
他人に公言するのはやや憚られる父の職業を思うと、受け答えもついつい歯切れが悪くなってしまう。
「実は私、以前から大ファンだったのよ。」 「ええっ(@@;;;;;;;;;;)!?」
少しはにかんだ表情を見せて、リツコがこう言ったから、シンジは椅子から転げ落ちんばかりに驚愕した。傍らのカヲルも食べるのを一時休止して、話の成り行きを見守ることにしたようだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・そ、そんなに気を使ってくださらなくてもいいですよ。」
冷静に判断すれば、こんなうら若き女性が鬼畜SM小説の第一人者、碇ゲンドウのファンだなんて、どう考えてもリップサービスに決まっている。ところが、リツコはその頬をやや紅潮すらさせて、なおも熱っぽく語り続けるではないか。
「本当よ。四省堂書店で開催されたサイン会にも行ったのよ。」
「そ、それはさぞや大変だったんじゃ・・・・・・・・・・・・・(^^;;;;;)。」
遅筆な上に事務能力ゼロのゲンドウに代わって、ファンレターの整理を受け持つシンジは、父のファン層を知り尽くしている。PTAのオバさん連中からの抗議の手紙は山のように来たが、女性からの好意的な手紙が届いたことなどかつて一度たりともなかった。
「確かに女性は私のほかに誰もいなかったわね。かえって先生の方が戸惑ってらっしゃったみたい。」
「そういえば父さん、あの日帰宅してから妙に浮かれてたけど、そんなことがあったとはね。」
世の男どもの例に漏れず、ゲンドウも美人にはかなり弱い。もちろん加持のように積極的なアプローチなど出来ず、ただただその美しさに見惚れているのが精一杯なのだが、それでも目前に美女が登場したときのゲンドウの分かり易すぎる反応にはシンジはいつも呆れている。おまけに本人は平常心を保っているつもりなのだから、もう何をか言わんやである。
「旅館には碇先生もいらっしゃっているんでしょ?」
「ええ。」
父に冷たく置いて行かれたから、仕方なくこうしてのこのこ特急で追いかけているんです。とまでぶちまけたかったが、唯一無二の貴重な女性ファンを失うような真似はやめておいた。
「もしご迷惑でなかったら、一目会わせていただけないかしら。」
「もちろんですよ。父もきっと喜びます。」
意外な話題で盛り上がっているシンジとリツコを尻目に、カヲルとレイはまるで倦怠期の夫婦のように気のない様子で向かい合っている。
「・・・・・・・・・・どうしたの?今日は大人しいのね・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ーー)。」
カヲルの一人勝手に抱いていた完璧な計画が、目的地を前にして早くも土台から崩れかけていた。
(ちっ。まさか綾波さんの姉さんが先生のファンだったとはね。)
無論あれだけユイに思い入れているゲンドウが、彼女に心を動かすことはないと確信しているが、それでも二人っきりになれるチャンスが減るのは間違いない。
(これは根本的に作戦を見直さなくては・・・・・・・・・・・・ね。)
あくまでも予定は未定。アクシデントは付き物だ。しかし、この程度のことに怯んでいては、いつまでたってもゲンドウとの本格的な進展なんてあり得ない。それに真の意味での障害は外的要因よりも、むしろゲンドウ自身の心の中に高々と聳え立っているのだ。
(とにかく全ては到着してからだね。)
溢れる期待とほんのわずかの不安を抱いて、カヲルは窓から流れる灯りにそっと視線を移した。


TO BE CONTINUED


 

back