*昔の女*



ギィギィと軋むような金属音が、朝の透明な空気を引き裂くように響き渡る。お世辞にも耳障りのいい音とはいえないが、今ではこの音を聞かないと一日が始まらない気さえする。シャッターが上まで開き切り、店内の様子がすっかり明らかになった。大丈夫、今日も異常無しだ。
「は〜い、お待たせしましたあ。いらっしゃいませ。」
開店前から店の前に屯していたジャージ姿の数人の学生に、明るく挨拶をするカヲル。どうやら彼らはクラブの朝練のため、こんな早い時間から駆り出されているらしい。今日は第二土曜で学校は休みなのだ。手巻きおにぎりにバーガー系のパン、さらに飲み物やデザートなどを抱えて、談笑しながらレジまでやってくる少年たちをカヲルは手際良くさばいていく。その間店長たるゲンドウが何をしているかといえば、あくびしながら店内をウロウロしているか、男性向け雑誌のヘアヌードグラビアを覗き込んで、口元をだらしなく緩めているのが関の山。全く役にもたたないどころか、すっかり邪魔者に成り果てている。それでもゲンドウ一人で店を切り回していた頃には、最低限のことはやっていたのだ。ところが、カヲルが来てからというもの、何もかも彼に任せっぱなしで、殆どヒモと変わりがない状態に転落していた。けれども、むしろこの状況こそ、この男の地なのだ。しっかりものの誰か〜それはあるときは友人、またあるときは恋人だったりするのだが〜に寄生して、のんべんだらりと生きていくお気楽人生。落伍者ギリギリの情けない生き様ではあるが、とにもかくにも今までの四十八年間をそれで乗りきってきてしまった。生来の怠け者に加え、経済観念はゼロだし、享楽的だし、そのくせ口下手で不器用と欠点だらけのゲンドウなのだが、それでも周りの友人・知人たちには、この年まで見放されることもなく、実のある交わりが続いていた。普通に考えれば、単なる厄介者でしかないゲンドウだが、彼らからすれば、”世話はやけるけど、ほっておけないタイプ”なのかもしれない。その無様なほどの要領の悪さも、彼をなんとなく憎めない存在にしていた。
「店長、朝の忙しい時に遊んでないで、ちょっとは手伝いなよ。」
ようやく客が一段落した頃合を見計らって、カヲルはぐうたらオヤジを厳しく叱責するのだが、行動が改善される様子はない。
「ただでもビジュアル的に店のイメージを大幅に落としてるんだから、せめて労働で貢献しようとか思わないかね。」
だんだん攻撃のセリフも容赦のないものになってきた。
「お前は目上のものに向かって遠慮というものがないのか?」
「あるよ。尊敬に値する人には、僕だって無礼なことは言わないもん。」
確かに、たまにカヲルの様子を見に来る冬月に対しては、きちんと礼儀正しい対応を見せている。やれば出来るのだ。そのことがますますゲンドウを不愉快な気持ちにさせた。
「私は冬月から頼まれて、お前の面倒を見ているんだぞ。」
「・・・・・・・・・・面倒を見てるのは僕の方だろ。」
「な、何だと(@@;;)。」
表情も変えずにあっさりと返されて、ゲンドウは思わず絶句した。
「だって、僕がいなけりゃ仕入だって満足に出来ないじゃないか。ディスプレイのセンスも皆無だし、流行りものには疎いし、帳簿も全然つけられないし、こんなんでよくもまあコンビニを経営しようなんて思いついたものだね。」
悔しいが、カヲルの言っている内容は100%当たっている。コンビニ経営に関してだって、ゲンドウにしっかりしたポリシーや先の見通しがあるわけではない。そもそもの動機からして、いい加減なのだ。自己破産寸前の状況で職も失ったゲンドウが、取り立てにきたローン会社の社員連中に、この先のことを問い詰められて、苦し紛れに語った一言がきっかけで、トントン拍子に決定してしまったのだから。ゆえに店を発展させようという意欲など最初からありはしない。仮に店が潰れて、自己破産に陥ったとしても、選挙権やクレジットカードを失うくらいで、そんなにたいしたことでもあるまいと高を括っている。何もかもが行き当たりばったり。真から底から物臭な男なのだ。カヲルがやって来るまで、店が持っていたこと自体が奇跡。もし、彼が来なければ、とうの昔に店は消え失せていたに違いない。
「しかも、ギャンブル三昧の生活態度を改めようともしないし、もう最低の人間だね。ただいたずらに歳を取ったってだけのオヤジ。」
ここまで捲し立てて、一旦すうっと息を吐くと、カヲルはゲンドウを睨むように上目使いで見詰めながら、とどめの一言を発した。
「そんなだから奥さんに捨てられるんだよ。」




ゲンドウにもかつては人並みの家庭を持っていた時期があった。冬月の大学の教え子で、美人でしっかり者の妻のユイと、少し覇気に欠けるきらいはあるが、なかなか利発な一人息子のシンジ。しかし、ゲンドウの借金が膨れ上がり、家族であるユイやシンジのもとにまで容赦のない返済の催促が来るに至ったとき、彼は勝手に区役所に離婚届を提出し、納得できずに食い下がる妻子を強引に家から追い出してしまった。もちろん、二人を自分の借金の巻き添えにすまいという、ゲンドウに微量ながら残っていた良心から出た行動であり、借金にケリがついた暁には必ず彼らを迎えに行こうと考えていた。ところが、帰るべき実家のなかったユイは、恩師でもある冬月を頼ることとなり、交流を深めるうちに、なんと彼らは一年前結婚の運びとなってしまったのだ。以来、あのオヤジ狩り事件のときまでゲンドウは冬月の前に姿を見せていなかった。彼を恨んでいたわけではないが、なんとなく気まずい思いがして、顔を出しづらかったのだ。それにゲンドウ自身の心の中にもわだかまりがあった。
(俺だけで思い込んでいた段取りに過ぎなかったのだから仕方ないが・・・・・・・・・・。)
ゲンドウの知る限り、冬月は最も信頼に値する男だし、怠惰な自分よりよっぽど良き夫となるだろう。この結末は、むしろユイやシンジへの天の配剤なのかもしれない。それでも、ゲンドウの胸の片隅にはこんな思いが燻っていた。
(・・・・・・・・・ユイも冷たい女だ。たった数年が我慢出来んとは。)
一言の相談もなく離婚届を出した上に、口を極めた罵詈雑言を浴びせて追い出した妻に、なおも自分を待っていて欲しいとはなんとまあ自己中な男なのだろう。そもそも、この先の予定(未定とはいえ)について、何一つ説明していないのだから、彼女を責めるのはまるっきり御門違い。それどころか、そんな仕打ちをされたにもかかわらず、ユイは決してゲンドウを憎んでなどいない。冬月夫人となった今も、まるで何事もなかったかのようにちょくちょく店に顔を出し、ゲンドウやカヲルを励ましたりするのだ。元々おおらかで大陸的な女だとは思っていたが、初めてユイが店に現われた時には、さすがのゲンドウも面食らったものだ。
「な、何を言うか。別に捨てられたわけではないぞ。こちらから追い出してやったのだ。」
「・・・・・・・・・・ウソばっか。ユイさんが店に来るたびどぎまぎして、諦め切れない様子丸出しのくせに。」
カヲルにとって、ユイの存在は当然快いものではなかった。いくら今は人の妻になっているといっても、交流がある以上、きっかけひとつでどう転ぶか分からない。わずか半年足らずの間に、ゲンドウはカヲルにとってもはや離れ難い相手となっていた。この世で唯一自分を必要としてくれる人。ゲンドウの真意はどうあれ、カヲルはそう思っていたかった。本当は単にそばにいる気安さから、手を出しただけなのかもしれない。現に、ゲンドウから未だかつて一度たりとも愛の言葉を囁いてもらったことなどなかった。それでも今は自分だけのパートナーである(はずの)ゲンドウの以前の妻や恋人が、目と鼻の先に二人も住んでいるのは不愉快でたまらない。二人・・・・・そう、ゲンドウと深い関わりがあった女性が、もう一人この町内で暮らしているのだ。
「全く、どうして昔の女と未練がましく逢瀬を重ねているかね。」
膨れっ面のカヲルを前に、上手いいいわけをあれこれ考えるゲンドウだったが、そのときすうっと自動ドアが開いて、もう一人の昔の女が入って来てしまった。
「六分儀さん、またカヲルちゃんを困らせているのね。」
「・・・・・・・・・・あ、赤木君・・・・・。」



赤木ナオコはゲンドウの幼馴染で、現在は第三赤木ビルでスナック”MAGI”を経営している。彼女自身の知的できりっとした美貌や気さくな性格もさることながら、イタメシのような今風の献立だけでなく、昔ながらのおふくろの味をも大切にしたバラエティに富んだメニューがうけて、決して大きいとはいえない店構えにもかかわらず、”MAGI”は今では一般のお客はもちろんのこと、商店街の人々の憩いの場にもなっていた。しかも、彼女は女だてらに五件ものビルを所有しており、町内では一番の資産家だった。まさに才色兼備の女実業家。そんな彼女の人生唯一の汚点が、かつて六分儀ゲンドウと数年間同棲していたということなのは、世間的には疑いのない事実であろう。しかし、ゲンドウと男女の関係でなくなった今でも、彼女は良き友人として、彼のことをいろいろ気遣ってくれている。
「ナオコさん、もしかして、また家賃落ちてなかった?」
カヲルはどうにも割り切れない心をぐっと抑えて、作り笑顔さえ浮かべた。
「あら、気にしないでいいのよ。カヲルちゃんには何の落ち度もないんだから。」
「でも、お金は僕が管理してるんだ。ごめんなさい。あとで必ず振り込んでおくから。」
実は、ここは第一赤木ビルの一階。開店資金さえ親友から借りたような男に、自分の店舗を持つ甲斐性があるわけがない。つまり、この店はナオコに借りているのであった。ちなみにビルは四階建てで、二階は楽器・CD・ビデオ及びゲームソフトを扱っている青葉楽器店、三階がナオコの実娘で公認会計士の資格を持つリツコが経営している赤木会計事務所、そして四階が赤木一家の住居となっていた。赤木家は前述の二人に養女のレイを加えた三人家族。レイはカヲルよりひとつ年下の十四歳で、カヲルと同じ中学の普通部に通っている。
「あ、あとナオコさんから借りてるお金もあったよね。」
この最低ヒゲダルマは親友のみならず、昔の女にまで金を借りている。その上、ナオコだけならまだしも、密かにユイにまで借金をしていた。さんざん罵って追い出したはずの女にまで金の無心をするとは、人間としての誇りを南極の氷山の上にでも置き忘れてきたとしか言いようがない。むろん、カヲルは承知の上だが、これに関してはさすがに内心はらわたが煮えくり返る思いだ。なにしろ借金がある限り、ゲンドウとこの女たちの縁は切れることがないのだから。さらに嫌なことに、ユイとナオコには自分たちの間柄がばれていた。彼女たちは彼らが不適切な関係になった直後に、それぞれあっさりとそのことを見抜いてしまったのだ。元々、二人とも頭はいいし、勘の鋭い女性ではあるが、それにしても、どうしてこうも簡単に分かってしまったのか、未だに納得が行かないカヲルだった。



「え〜と、両方で二十五万だったよね。」
「そうよ。」
カヲルを見て、柔らかく微笑むナオコ。この少年に対する嫉妬の感情などない。むしろ、不誠実で無精者のオヤジに振りまわされて、酷い目に遭わされないかとハラハラしながら見守っている。すでにゲンドウに対する男女の感情は風化していた。しかし、現在の心境に至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。彼がユイと結婚してからは、ずっと激しい嫉妬や憎悪に苛まれたものだった。いつも冷静沈着な彼女に似合わず、ゲンドウのことを面と向かって罵倒したことさえあった。そんな感情を何年も持て余してきたナオコだったが、故あって10年前に引き取ったレイが、彼女のタイトロープのような心のバランスを支えてくれた。育った環境のため、無口で無表情で人に心を開かない娘になってしまっていたレイとの格闘の日々。余計なことを考える暇などこれっぽちも与えられないその過酷な戦いが、彼女に恋人への未練を少しづつ薄れさせて行った。ナオコのひたむきな愛情の甲斐あって、今ではレイは少々口が悪いところを除けば、ほとんど普通の娘と変わらない。ただ、最近、ナオコのことを事もあろうに『ばーさん』と呼ぶのだけが、小さな悩みではあるが。
「カヲルちゃん、このひとがとんでもないことをしたら、いつでも言いなさいよ。出来る限りのことはするから。」
「・・・・・・・・・・ありがと・・・・・・・・・・。」
不自然な笑みで礼を述べるカヲル。ナオコがいい人であればあるほど、カヲルのストレスはたまって行く。性格がいいだけでなく、美人で金持ち、とくれば、いつゲンドウが寄りを戻す気になってもおかしくない。ユイが姿を現わした時ほどではないが、ナオコに対しても、ゲンドウはいつもそわそわとして落ち着きがないのだ。
(どーせ、また・・・・・・・・・・。)
カヲルはちらとゲンドウの方を盗み見た。珍しく今日の彼はナオコに対して無関心だった。けれども、考えようによってはなお悪い。何しろ、この店の家賃ばかりか、自身の借金の返済の遅れまで、カヲルに詫びさせておいて、自らは過激な内容で知られる某投稿雑誌の袋とじヌードをなんとか上部から覗き込もうと、必死でその個所を押し広げているではないか。
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(メ-_-)。)




カヲルがつかつかとゲンドウの背後に歩み寄る。もうちょっとで美女のあられもない姿が見えそうなゲンドウはもう夢中。怒り混じりの乱暴な足音にもまるで気付かない。
ぱこーん!!!!!
カヲルお得意の注文書攻撃がエロオヤジの後頭部を直撃した。
「イ、イテテテテ。何をするか。せっかくもうちょっとで全開ポーズが・・・・・いやいや・・・・・。」
「店長、今のうちに早くモップ掛けを済ませてよ。」
「六分儀さん、いい加減にしなさいよ。こんな自分の息子と変わらない年のコに店を任せっきりにして・・・・・・・・・・貴方、恥ずかしくないの。」
カヲルのみならずナオコにまで厳しい言葉を浴びせられ、さすがに言い返せないゲンドウ。何しろナオコは二人の秘密を知っているのだ。これを冬月にチクられたら、確実に身の破滅だ。いくら温厚な冬月といえども、この手のことは絶対許してくれないであろうことを、ゲンドウは長い付き合いから敏感に感じ取っていた。
「・・・・・・・・・・わかった。」
苦々しくこう漏らすと、ゲンドウはカヲルからモップを受けとって、のろのろと床を拭きはじめる。やる気がないから、動作も緩慢だ。
「もっとしっかり擦ってよ。」
「うむ・・・・・・。」
「もっと腰を入れてやらなきゃ汚れが落ちないよ。」
「うるさいヤツだな。」
「言わなきゃやんないだろ。」
ガキにいちいち命令されて、露骨に渋い顔をするゲンドウだが、その実満更でもなさそうだ。指図しているカヲルの方も何となく生き生きしているように見える。そんな彼らを横目で見ながら、口元を緩ませるナオコ。
(ふふ・・・・・・・・・・不思議ね。こんなに釣合わないカップルなのに、微笑ましく感じるなんて。)
最初に二人の関係を知った時には、呆れ果ててゲンドウを怒鳴り付けたナオコだったが、海千山千のオヤジの方はともかく、カヲルの純粋な心情を考えると、その場で彼らを無理矢理引き離すことは出来なかった。誰かを真剣に愛する気持ちには年齢や身分や立場、そして多分性別も関係ないし、一旦火がついたら、他人はおろか自分自身ですら止めることなど出来はしない。そのことは彼女もイヤというほど思い知らされている。でも、いつまでもこのままの状態が続くとは到底考えられない。何と言っても、カヲルはまだ十五歳。いずれゲンドウの元を巣立ち、あらゆる意味で彼に相応しい女性と人生を共にするのが誰が考えても自然な姿だし、その方が確かな幸福を手に出来るに違いない。このまま、ゲンドウとの仲を貫くには、現時点ではあまりにも障害が多過ぎた。それに、今はその若さゆえ、一途に思い詰めているけれど、いずれ、憑き物が落ちたようにゲンドウのことなど忘れ去ってしまう日が来るかもしれない。あまりにも刹那で危うい関係。ナオコには、彼らの交わりはどうしてもそのようにしか思えなかった。
(あの人も根は寂しがりやだから、カヲルちゃんがいなくなったら、きっと深く傷つくでしょうね・・・・・・・・・。)
ケンカしてるのかじゃれてるのかわからない二人を複雑な心境で見遣りながら、彼女は静かに店を後にした。


TO BE CONTINUED


 

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