*交渉*



「ねえねえ・・・・・・・・・・日曜日・・・・・どこへ行こうか?」
乱れた息を整えながら、年の割には引き締まったゲンドウの胸板に顔を埋めたまま、掠れた甘え声で囁くカヲル。いつも店で事あるごとにオヤジに飛ばす容赦ない罵声とは天と地の差だ。我知らず愛しくなって、そのか細い肩を抱く腕にも一段と力が込もる。たち込める汗の匂いの中にカヲルの洗い立ての髪の残り香がふんわりと漂い、ゲンドウの鼻腔に爽やかな空気を供給する。余分な肉が一切ついていない骨ばった肢体とは裏腹のしっとりと吸い付くような素肌の感触も心地よい。けれども、たった今カヲルと激しく一戦交えたばかりのゲンドウには、彼の問いかけに瞬時に反応する余裕はなかった。この辺の回復力の差はやはり年齢的なものから来るのであろうか。
「日曜・・・・・・・・・?」
すぐには気持ちの切り替えが利かずに、怪訝そうに聞き返すゲンドウのみぞおち深く、怒りに任せたカヲルの鉄拳がヒットする。まだまだ何度でも再戦できそうな元気一杯の鋭いパンチだ。
「ぐおっ!なんだ突然に!!」
睦事の余韻に浸るヒマもなく、ゲンドウはいきなり激痛の渦に叩き落されてしまった。満たされた倦怠に気を抜き切っていただけに痛さも倍増である。
「ふん。もう忘れてるんだね。修学旅行へ行けなかった代わりにこの休日にはどこかへ連れてってくれるって約束したじゃないか。」
「・・・・・そういえば。」
店の新製品モニターもつとめてくれている駅前商店街の娘たちに、半ば強制的に誓わされたのははや先週のことだ。成り行きで決定した行事ではあるが、ゲンドウも内心満更でもない気分でその日を待っていたはずだった。けれども、現在彼の頭の中は全く別の行事で一杯になっていた。明後日からまた公営競馬が始まるのだ。ゲンドウの主戦場たる新大井競馬場はだいたい一開催5〜6日間の日程で月2回ほど組まれている。中央競馬とは異なり平日メインなので、普通の勤め人は通いづらかったのだが、数年前からナイター開催を始めたため、その時期は会社帰りのサラリーマンやOLで賑わうようになっていた。もっとも曲がりなりにも商店経営者のゲンドウにとっては平日だろうが何だろうが関係ない。競馬開催中はいつもにも増して店の仕事に身が入らず、日がな一日そわそわしているのだ。時にはカヲルの隙をついて、懇意にしている競馬記者の加持に馬券を頼むこともあるが、もれなく大損こいてはカヲルにタコ殴りにされていた。
「店長、マジで忘れてたね。」
昔取った杵柄。カヲルは凄みさえ感じさせる形相でゲンドウを激しく睨み付ける。並みの容貌なら怒りに歪んだ顔は相手に見苦しさだけを感じさせるのだろうが、カヲルは怒った顔もまた魅力的だった。顔立ちだけなら彼より美しい者も存在するかもしれないが、カヲルは単なる美貌の類に留まらない独特の雰囲気を有していた。たとえスーパーの大安売りのTシャツとGジャンを着ていても、どこに居ようと一目で彼だと分かるだろう。今までの信条に反して、ゲンドウが全く守備範囲外の相手にふらふらと手を出してしまった一因も、多少なりともそこにあるような気がしてならない。
「い、いや忘れてなどないぞ。」
「ホントかなあ・・・・・・・・・。」
慌てて否定の言葉を発したゲンドウだったが、不自然に高い声になってしまった上、日頃の悪行もあって、カヲルからはまるっきり信用されていない。なんとか評価を挽回しようと、ゲンドウはイケてるお出掛けスポットの提案を目論んだが、悲しいかな、何ひとつ思い浮かばない。そもそも誰かと人並みのデートをした経験など皆無だし、流行にもまるっきり疎いのだから、気の利いた場所を知っているわけがないのだ。
(ううむ。困ったぞ。)
いっぺんに答えに詰まったゲンドウにカヲルの更なる冷たい視線が浴びせ掛けられる。冷や汗さえ垂らしてますますパニックになるゲンドウ。とそのとき、天啓のように外出にも自分の都合にも打ってつけの場所が閃いた。



「そ、そうだ。天気が良かったら区民公園なんかどうだ?」
「区民公園?」
予想もしなかった健康的な場所の登場に、カヲルはくりんと瞳を動かしながら好奇心たっぷりに聞き返す。悪い反応ではない。ゲンドウは鼻の穴を膨らませながら、ここぞとばかり区民公園の美点について力説を始めた。
「うむ、サイクリングやアスレチックスの設備もあるから、少ない予算で一日中存分に楽しめるぞ。」
「でも自転車持ってないよ。」
「大丈夫だ、無料レンタルが用意されている。」
タウンページの巻頭特集に書いてあった情報を、したり顔でそのまんまゲンドウは披露する。見る見るうちにカヲルの表情がぱあっと明るく輝いてきた。
「じゃ、店長と一緒にサイクリングできるんだね。わーい、やったあ!」
長い間探していた貴重品をようやく手に入れたかのようにはしゃぐカヲル。優しい眼差しを注ぎつつも、状況上ゲンドウはたしなめざるを得ない。
「夜中にそんな大声で叫ぶな。近所迷惑だろうが。」
「平気平気。この部屋の右側は道路に面してるし、左隣は空室じゃないか。だからえっちの最中だって心置きなく声出せるんだもんね♪」
「・・・・・・・・・・お前はまたそういうことを・・・・・・・・・・(ーー;;)。」
この度を越した恥じらいのなさだけはどうにかならんかとゲンドウは心底嘆かずにはいられない。カヲルは貧相な身体に似合わず、あらゆる個所が人並みはずれて敏感で、その自然に任せた感じるままの叫び声には、大いにそそられつつも閉口させられることがしばしばだった。でもコトの後で本人に注意しても、全然覚えてないの一言であっさり却下されてしまうのだった。
「ふうん、区民公園かあ。思わぬ穴場かもね。」
「あくまでも当日の天気次第だがな。」
「週刊予報では土日は晴れだったよ。ふふふ、楽しみだなあ。そうだ。この前、ユニクロで買った新しいジャケットを着ていこうっと。」
カヲルはすっかり区民公園へ行く気になっている。ゲンドウは心の中でよっしゃとガッツポーズを取った。ここまでこぎつければ真の目的地までは目と鼻の先。ある意味カヲルよりも遥かに喜んでいたゲンドウは浮かれるあまり、つい余計な一言を付け加えてしまった。
「そうそうイルカやアシカのショーが見られる水族館もあるぞ。」
「じゃあ、遊び疲れたら、そこで魚たちのショーを観賞するのもいいかもね。・・・・・・・・・・んん!?」
ふと何事かを思い出したようにカヲルの顔から一切の笑みが消滅した。ゲンドウをきっと見据えてこう切り出す。
「・・・・・・・・・・店長、まさかとは思うけど・・・・・・・・まさか、その公園って”新しながわ区民公園”じゃないだろうね。」
「うっ(__;)・・・・・・・!!」
ズバリ言い当てられて、ゲンドウはその場で硬直した。ますます険しくなるカヲルの表情。
「やっぱりそうなんだね。」




「あ、あのな・・・・・・・・・・。」
必死で弁解に走ろうとするゲンドウだったが、当然カヲルは相手にしない。それどころか視線すら合わせようとしなかった。
「ふん、どうりでおかしいと思ったよ。こんな健全な休日の過ごし方を推奨する常識人じゃないもんね。どうせ目当ては公園の向かいのスポットなんだろ!!!!!」
新しながわ区民公園を道路ひとつ隔てたところに聳え立つ建物こそ、ゲンドウが男のロマンを賭ける場所(自己申告^^;;)、新大井競馬場である。現在はナイター期間中なので、夜8時過ぎまで開催されており、日暮れまで公園でカヲルに付き合っても、楽勝で競馬場に出陣可能なのだ。
「そ、そんなに怒るな。カワイイ顔が台無しだぞ。」
「これで怒らない人間がいたらお目にかかりたいものだよ。」
ぷうっと膨れっ面のまま、カヲルはゲンドウをジト目で眺めている。怒りのみならず侮蔑さえ混じった面持ちに、ゲンドウのハートが0.00001%くらいだけ傷ついたが、むろんここで引き下がるような良識など皆無だ。わずかばかりの誇りも見栄も捨て去って、ゲンドウはなりふり構わぬ哀願作戦に出た。
「ちょっとだけでいいんだ。」
「ダメ。」
「メインレースだけでいいんだ。なっ。」
「ダメ。」
「予算も5000円・・・・・いや、3000円までにとどめるから。」
「絶対にイヤだ。」
これ以上カヲルの機嫌を損ねまいと目一杯下手に出たゲンドウだったが、カヲルのあまりにもつれない態度に逆に腹が立ってきた。どうして自分の金を使うのに、ここまでカヲルの顔色を覗わなくてはならないのか。といっても、いつのまにやらゲンドウはカヲルにしっかりと財布のヒモを握られていた。カードも通帳も現金もなにもかもカヲルの管理下だ。改めてそれを自覚すると、自分の行いを棚に上げて、さらに憤りが増幅してきた。
「わかった。お前がそういう態度に出るのならもういい。日曜の話はなしだ。」
刺すような口調でそれだけ宣言すると、ゲンドウはカヲルから身体を放して、ぷいとそっぽを向いてしまった。ただし布団が狭いので、完全に接触を断つことは出来なかったが。
「あ・・・・・・・・・。」
今まで優しく自分を包んでいた暖かい胸と逞しい腕を突如失って、カヲルははっきりと落胆の色を示していた。しかし、ここで甘い顔を見せるわけには行かない。ただでも最近店のみならず家の主導権までカヲルにすっかり奪われているのだ。周囲の連中もカヲルのことをぐうたらな養い親の面倒を見ながら、コンビニを切り盛りしているけなげな少年と決め付けており、実は案外ワガママだとか実はとっても乱暴だとかいう数多の欠点は、思い込み美談の前にすっかり影が薄くなっていた。カヲルがカラーギャングのリーダーだったという前歴など、この町内の誰一人信用すまい。そもそも何故カヲルはあんなに荒れていたのだろうか。この店に来てからの裏表のない真面目な働きぶりや皆への節度ある接し方を見るにつけても、ゲンドウは不思議でたまらなかった。カヲルの家庭環境について、冬月は今でも最低限のことしか教えてくれない。親戚をたらし回しにされていたというのだから、恵まれた環境でなかったのは明らかであるが、カヲルの両親の所在をいくら尋ねても、冬月は決して答えず、即座に話題を変えてお茶を濁すだけなのだ。それが喉に刺さったまま取れない魚の骨のように、常にゲンドウの頭の中で引っ掛かっていた。



「店長。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「店長ったらあ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
不本意ながら自分の方から歩み寄って声をかけたにもかかわらず、背中を向けたまま無視を決め込むゲンドウにカヲルも負けていない。
「そんな偉そうな態度取っていいの?冬月先生に僕たちふたりの関係をばらしたら、店長の社会的生命は一巻の終わりなんだよ。まあ今でも9割くらいは終わってるようなものだけどさ。」
「お、おい!まさかお前・・・・・・・・・・。」
もっとも弱いところを攻められて、ゲンドウはあたふたと振りかえった。
「ま、店長が以後バカな企みはしないって誓えば、黙っててあげてもいいけど。早く風呂付きのアパートに移りたいんだから、ムダ遣いはやめてよ。」
「お前は何にもわかっとらん。少ない投資で大きく増やすのが賢い利殖のコツなんだぞ。」
「そんな薀蓄はきちんと投資分を取り返している人間が語ることだよ。いっつも大損ばっかりしているくせによく言うよ。」
「いや、あれはより大きな配当を得るための授業料のようなもので・・・・・・・ぐはっ(>_<;;)。」
言い終わらないうちにカヲルの右手がゲンドウの急所を力任せに握り占めた。
「これ以上つまらないことをほざいてると再起不能になるまで握り潰すからね。」
「な、な、なんてヤツだ。」
腰をへなへなと引きつつ、どうにかしてカヲルの手を振りほどこうともがくゲンドウだったが、すでにかなりの痛手を受けているため、情けない位動きが緩慢である。現在の苦痛に耐えるのがやっとといった趣だ。
「きゃはは、みっともな〜い。」
ゲンドウの仕草があまりにも滑稽なので、カヲルは容赦なく笑い飛ばした。こめかみあたりに青筋が見え隠れするゲンドウ。
「再起不能になったらお前だって困るんじゃないのか。ついさっきまではあんなにおねだりして・・・・・・・アイテ!」
今度はカヲルの平手が右頬に炸裂した。口も達者なら手も早いので、少しでも気を抜くとどこから攻撃が飛んでくるかわからない。
「・・・・・・・・・・なあ、ほんの1.2レースくらいダメなのか。」
ついにゲンドウの方がへこたれて、再び縋りつくような口調でお伺いを立てた。好物の最後の一口を奪われた子供のようにしょぼくれた様子で見詰められると、カヲルもついつい軟化してしまう。
「そんなに行きたいの?」
「う、うむ。」
潔く素直に答えるオヤジ。カヲルはその髭面を上目遣いでじいっと見遣りながら考える。どうしてこの人はこんなに競馬に執着するのだろう。たかだか馬の勝ち負けで我を忘れて一喜一憂して、たまに的中した時には心の底から嬉しそうないい表情をするのだ。この人は僕のことでこんなはじけるような笑顔を見せてくれたことがあっただろうか。そう考えるとなんだか悔しかった。実のところこの人にとって僕の価値は競馬以下なのかもしれない。





「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いいよ。」
敵の正体が不明瞭なまま、悶々と思い悩むのは性に合わないし、競馬場での自分の知らないゲンドウの生態にも興味を引かれたので、気乗りはしなかったもののカヲルは一度だけオヤジに付き合ってやることに決めた。
「何!ホントか!?」
小躍りせんばかりに喜ぶゲンドウがますます腹立たしかったが、それを気取られるのはムカツクので、カヲルは必死に平静を保つ。それにこの苦しい経済状態の中、オヤジの好き放題にさせるつもりはない。
「その代わり一レース500円までだからね。」
「そ、そりゃないぞ。せめて1000円くらいは・・・・・・・・・。」
「ダメ。500円までじゃなきゃ許さない。」
にこりともせずに返すカヲルの瞳の氷点下を感じた瞬間、もはやどんな抵抗も意味を成さないとゲンドウは観念した。行く許可が出ただけでも御の字とすべきだろう。
「わかった。」
と取りあえず答えておいても、当日入場さえしてしまえばこっちのものだ。ここで再度カヲルを怒らせるのは得策ではない。とまあ、上手く立ち回ったつもりのゲンドウだったが、カヲルの眼力はそんなに甘いものではなかった。
「店長、場内に入ってしまえば何とでもなるなんてナメたこと考えててもムダだからね。お金は予算ジャストしか持っていかないよ。」
密かに目論んでいたことを瞬時に根底から覆され、がっくりと肩を落とすゲンドウ。
「もう店長の考えてることなんて、何だってお見通しなんだから。」
カヲルがちょっと得意げかつ嬉しげにあごをくいっと上げてこう付け加える。ゲンドウがあの手この手で下手な小細工を弄しても、カヲルには必ず見抜かれてしまう。カヲルが人並みはずれて勘の鋭い子だということは認めるが、だとしても自分の3分の1も生きてないガキに悉く手の内を読まれてしまうなんて不愉快でたまらなかった。日常生活では役立たずのくせに、妙なところでプライドだけは一人前なのだ。
(くそ、偉そうにしおって。日曜を見ていろ。私の勝負師としての真の実力をお前に見せつけてやる。)
カヲルの方はそんな実力など露ほども見たくないという当たり前のことにも気付かず、ひとり勝手に両の拳を握り締め、気合を入れるゲンドウだった。


TO BE CONTINUED


 

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