*競馬場にて〜1*



「ほら、これで煮込みでも食って来い。」
いかにも面倒くさそうに、ゲンドウは胸ポケットからくすんだ500円玉を取り出すと、それを力づくでカヲルの掌に握らせた。
「煮込みってもしかしてさっき店長が食べていたあれ?やだよ、あんなの。」
油ぎった汁の中でドス黒く煮崩れたモツと白っぽいこんにゃくだけが顔を覗かせているシロモノは、カヲルが知っている”煮込み”とはまるっきり異なる様相を呈していた。しかも発泡スチロールの容器に盛り付けられたそれを、粗末なトタンのテーブルで立ち食いさせられるのだ。
「ここではあれがなによりのご馳走なんだ。早く行け。」
言い終わらないうちにゲンドウはさっさと背を向けて、競馬新聞とにらめっこを始めた。小さな数字だらけの紙面を一心不乱に見詰めながら、なにやらぶつぶつと呟いている。もうカヲルの存在すらすっかり忘れたかのようだ。
(この集中力が仕事のときにもあったらね。)
いつものカヲルだったら、これをはっきりと口に出しているところだが、今のゲンドウにどんな言葉を投げかけたところで、その耳を素通りするだけなのは分かり切っていたので、ぐっと飲み込むと立ち食い飲食店ゾーンの方に向かって歩き出した。ゲンドウは相変わらず馬券検討に没頭していてカヲルのことなど一瞥もしてくれない。ブザマなくらい哀願して、ようやく競馬場へ来ることを許可してもらったというのに、場内に着いた途端、当然の権利のように俺様丸出しで振舞うオヤジの姿に、カヲルは見当違いの好奇心とささやかな仏心を出した自分に対して深く後悔せずにはいられなかった。




区民公園でのどことなくそわそわしたオヤジの仕草を見て、不吉な予感が漂ってはいたのだが、実際現地に到着するまでは、ゲンドウの競馬狂いがここまでとは思わなかったのだ。公園ではサイクリングやバトミントンにも付き合ってくれたりして、ゲンドウにしては精一杯の心遣いを示してくれた。それが嬉しかっただけに、ここでの極端な見放されっぷりが一層惨めさを際立たせる。さらに輪をかけてカヲルの怒りを誘うのは、競馬場の様子がゲンドウの説明とまるっきり違っていたことだった。曰く、建物はリニューアルして流行りの場所にも負けないほどカッコいい、最近はカップルや会社帰りのサラリーマンなども多い、ハンバーガーやチキンやホットドッグなど若向きの食べ物が殆ど、ギャンブル場のイメージはすっかり消え失せて、健全なレジャースポットetc・・・・・・。全部大ウソではないか。いや、正確に言うと当たってる部分もあるが、少なくともゲンドウが活動している半径百メートルにはこれっぽちも当てはまらなかった。ここはちょうど第4コーナーのあたりで、ゴール前や馬の下見所に当たるパドックとは客層からしてすでに別世界。若者や女性の色取り取りの服装が鮮やかな花形ゾーンとは異なり、オヤジたちのモノトーンの地味な色彩で風景さえくすんで見える。販売している食べ物も前述の煮込みを始めとして、焼き鳥、フライ物等妙に濃いのだ。そんな雰囲気の中ではカヲルのような少年は全く場違いだった。おろしたてのデニムジャケットを無造作に羽織った姿は、流行りのミュージシャンのコンサートに行くといっても違和感はない。
(はああ、つまんないの・・・・・・・・・・。)
活動的なスタイルとは裏腹にため息混じりの表情は冴えなかった。
(結局、僕が甘かったってことなんだろうな。)
さっき入場門のところで見た仲睦まじいカップルの姿が不意に頭に浮かんで、ますますどんよりした気持ちになってくる。
(来なきゃ良かったな・・・・・・・・。)
不覚にもちょっと涙目になって来た。それだけカヲルが今日という日に夢を馳せていた証拠であろう。ゲンドウと暮らし始めてから初めての二人っきりのプライベートな外出だったのだ。世間的なデートのようなロマンティックな展開は望むべくもないとしても、胸に残るような微笑ましい想い出のひとつやふたつは作れることを期待していた。区民公園でのささやかなゲットポイントはこの1時間足らずですっかり吐き出してしまい、すでに大幅なマイナスに転じていた。
(あんのバカ店長・・・・・・・・。)
すでに人生の黄昏に突入した冴えないオヤジが、こんなに若くて魅力的なパートナーを得る僥倖は万に一つもないということにどうして気付かないのだろう。とはいうものの、どんなに臍をかんだところで、現在ゲンドウがカヲルのことを邪魔者にしか思ってないという事実は明白だった。悲しくて情けなくて腹も立ったけれど、立ち止まると本当に涙がこぼれてしまいそうだったので、カヲルはことさらに早足で石畳を闊歩していた。もちろん何を食べる気にもなりゃしない。



4コーナー付近のオヤジゾーンを後に、エレベーターの入り口まで出た時、いきなり激しい衝撃に襲われた。周りを注意せず闇雲に前進していたので、エレベーターから出てきた客とまともに衝突したらしい。
「痛っ。」
「うわっ。」
大きくよろめきつつもどうにか体勢を立て直したカヲルだったが、相手のほうが倒れ込んでしまった。いくらゲンドウの仕打ちに平静な気持ちでいられなかったとしても、この場合明らかに非は自分のほうにある。カヲルはあわてて屈み込んで、尻餅をついている人物の様子を覗った。
「ご、ごめん。」
すっかり白髪と化した頭を見る限り、ゲンドウよりもかなり年配のようだ。大きな濃いサングラスをしているため、表情は全然わからないが、もしかしたら凄く怒っているかもしれない。
「ホントに済みません。」
改めて詫びると、カヲルはすっと右手を差し出して男性の手をぐっと引っ張った。外見やその骨ばった手の感触とは裏腹な力強さに、相手はかなり面食らっているみたいだ。カヲルからすれば、力仕事は日々の店での労働ですっかり慣れているので、自分より五周りは大きいと思える老人の巨体を助け起こすことにも何の抵抗もなかった。
「大丈夫?」
なおも相手を気遣って尋ねるカヲルの姿を、老人は長い間焦がれて来た名画の現物に初めて出会ったかのように、様々な角度から凝視し続ける。だが、自らに後ろ暗い部分があるだけに、カヲルはその状態を手放しで受け容れることは出来ず、ついつい穿った見方をしてしまう。
(こりゃあネチネチと怒られるかもな。ちぇっ。クソ店長のせいで踏んだり蹴ったりだよ。)
いかにも不服そうにこっそり舌打ちすると、カヲルはこれから自分の身に起こりうることをあれこれ推測して、一気に暗い気持ちになった。
(いっそこのままズラかっちゃおうかな。)
けれども、自分の不注意を棚に上げて不謹慎な企みを抱いた罰なのか、件の老人にいきなり両肩をがっちりと掴まれてしまった。
「何すんだよ!!」
驚いたのと嫌悪感から反射的にカヲルは彼の手を思いっきり跳ね除けてしまった。外面こそいいが、もともと根は気性が激しいのだ。ところが、老人は怯むどころか再びカヲルのか細い肩に手をかけてきたではないか。
(いったいどういうつもりなんだよ、このジジィ。まさか僕がカワイイからってカラダで責任取らせようっていうんじゃないだろうな。)
カヲルは訝しげに彼を眺めながら、次の攻撃をあれこれシミュレートしていたが、逆に思わぬ先制パンチを受けてしまった。
「似ている・・・・・・・・・。」
「えっ?」
「驚かせてすまんな。君が死んだ息子にあまりにもそっくりだったから。」
俯き加減にぼそりと呟いたセリフを耳にして、カヲルは抵抗をぴたりと止めた。この人は嘘はついていない。直感的にそう感じたからだ。
「もっとよく顔を見せてくれんか。」
「うん、いいけど。」
表向きはそっけなく答えながらも、カヲルはちょっとくすぐったいような、そしてある意味吹き出してしまいそうな微妙な心持ちになっていた。
(実の親から相手にされなかった僕が、赤の他人から息子呼ばわりされるなんてね・・・・・・・・・。)



「社長!こんなところにいらしたのですか!?」
「勝手に移動なされては困ります!!万が一のことがあったら、我々の責任が問われるのですから。」
高級な背広をきっちり着込んだ連中が件の老人の周りを取り囲む。恐らく突然いなくなった彼を心配してやってきたのであろうが、ちょっと見、拉致するかのように見えないでもない。
「ガラス張りの馬主席より、ここの方が臨場感があって私は好みだが。」
「何をおっしゃっているのですか、さ、早くお戻り下さい。」
一番暗い色の背広を着ている黒ぶちの眼鏡をかけた秘書風の男に促され、老人はしぶしぶエレベーターに向かって歩き出したが、不意に振りかえるとこう切り出した。
「最後に君の名前を教えて欲しいのだが。」
出し抜けに尋ねられて、カヲルは一瞬身構えるが、すぐに思い直した。こう見えてもカヲルは警戒心の強いところがあって、普段なら初対面の相手になど決して自分の所在や手の内を明かしたりはしない。だけど、今日だけは例外中の例外だった。ゲンドウに対しての怒りと失望、また老人の”息子に似ている”という言葉が一種の殺し文句となっていた。
「僕は渚カヲル。新豊町学園通りの六分儀デイリーマートってとこで働いてるんだ。」
もっとも、しっかり店のPRもするあたり、まだまだ平静さを失ってはいない。
「君がか?見たところまだ就業する年齢ではなさそうだが。」
「僕、居候だから仕方ないんだ。ちゃんと定時制の中学には通ってるよ。」
老人はまだなにやら聞きたそうだったが、部下たちに遮られてしまった。
「早くお戻り下さい。三友物産の会長が先ほどからお待ちです。」
「社長のワンダータブリスも久々に出走するではないですか。」
自分の競走馬まで所有しているあたり、どうやらこの老人は中小企業の名ばかりの社長ではないらしい。よくよく見れば、身につけているものにもどことなく品が感じられる。
「六分儀デイリーマートだな。」
最後に店の名を確認すると、老人は取り巻きを引き連れて、静かにエレベーターの中に消えて行った。


TO BE CONTINUED


 

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