或る仕事人の独白 4
私はちょうど五番街の手前まで来ていた。いいタイミングだった。このビルの高さを利用させてもらうことにする。セントラルパークに面した一等地に建つこのホテルは、前世紀の初期に創業した、ルネサンス様式の建物だ。ありがたいことに、凸凹が多い。
そのまま外壁に飛び移り、客室の窓のでっぱりに足を引っ掛け、移動してゆく。
上へ、真上へ、窓の桟を蹴る足に力を込めて。
空気抵抗に少しばかり目を細める。
あのナビがデリートされた時――しかもよりによって、私のPETに戻ってから――私は、実感した。
……こいつらかよ!『守護者』の正体、こいつらかよ!と。
ご丁寧に、牽制の意図を込めて、私の目の前でデリートしてくれたからな、あの黒いナビは。
そして、今は見る影もない元トップが狂いつつ、怯えながら喚く内容を、私は忘れない。
「黒い、クロい、くろいバケモノだ!ヤツが来る!来るな、来るなくるなくるなくるなバケモノォォォォォッォォー!!」
どんな方法を使ったのかは、私は知らない。けれど間違いなく、狂人の言う『黒い化け物』はカーネルだと、実感した。
そこで遅まきながら、バレルがカーネルをどうしたのか、気になった。
……あの化け物の始末を、きちんとしていったのだろうか。まさか、その後始末も、私の仕事か?
いやいやいやいや。私が受けた『依頼』は、バレルが死亡した際の、光熱斗との接点を示すあらゆる媒体を、廃棄することだ。
あれのことは、ノータッチでいいはずだ。というか、正直、私は関わりたくない。
あんな、あんな化け物のナビを。いや、ナビの化け物を言うべきか。
両者の持つ意味は、微妙に違う。後者なら、ナビとして化け物じみているのであって、前者は、存在自体が化け物が、ナビをやっている訳で――――…。
……まあ、いい。
とにかく、カーネルは『化け物』だ。あんな瞳をした、ナビはいない。あいつの瞳は、数字とアルファベットで構成された、プログラムで組み上げられた色じゃない。もっと深い、知性も感情の陰影も宿す、“生きた”眼だ。さりとて、人間のものでもない。まったく異質の、“何か”としか言いようがない。
大体、20年以上前から、一度もバージョンアップしていないナビが、現在のネット社会に普通に適応できている、というだけで、異常だ。
ありえない。
科学技術の進歩というものは、一時曲線ではない。二次曲線だ。何がきっかけで、飛躍的に発達するかわからない。携帯電話を見てみるがいい。元は『携帯』とは言い難い、どこの体育会系高校生の弁当箱だ!と表現したくなるような、重く、大きい代物が、内蔵電池の改良に成功した途端に、あっという間に手の平サイズ、重さも50グラムを切った。
ネット社会も同様だ。光正・光祐一郎良博士の登場で、それまでには考えられないほど、急速に、ネットに依存した社会が出来上がった。
おまけにカーネルが誕生した時代に、光祐一郎博士は存在しない。ナビに、人格プログラムを組み込んだ張本人が。
――なのに何故、カーネルに『人格』があるんだ。それほど、ネットの歴史でいえば前世紀のともいえる時代にプログラムされたナビが、どうして今も平気で動いているんだ。使われる機械言語は同じでも、フレームの形成やら何やらは、違うだろう?門外漢の私でも、それぐらいはわかる。
だが、ヤツは――カーネルは、普通に動いている。しかも私の元相方のナビは、デリートされる寸前まで、カーネルの存在に気付かなかった。
ありえない。
絶対に。
ホテルの屋上に降り立つと、緑化対策だろう。こじんまりとした庭園が広がっている。
とりあえず、あんなナビを野放しにするなよオペレーター、と心中祈る。
オペレーターといえば、バレル。彼も妙な男だった。…私に『依頼』してくる時点で妙だし、その内容も妙だし、アメロッパ軍から監視されている理由も、理由だったし(一応調べたのだ)。
何と言うか、今になってみれば、彼は知っていたとしか思えないのだ。
“未来”を。
『依頼』を受けた時点では、父や祖父が偉人だというだけの、どこにでもいる少年が。
その少年に与えられたカスタマイズナビが。
『あんなこと』になるとは、その時点では予測のしようがない。
けれど、知っていたのか。
彼らが、のちにWWWと、ネビュラと戦うことになることを。
世界を巻き込む戦いに関わり、現実世界も電脳世界も、救うことになることを。
クロスフューージョンなんて、SFじみた技術が開発されるのを。
……知って、いたのか。
それを聞く前に、死んでしまったが。もっとも、それを聞いたところで、あの男が、答えてくれるとも思えないが。
とりあえず、私は私の仕事をするだけだ。
感傷を振り切って、私はビルの谷間を跳んだ。