誤解の招き方 1/4



 きっかけは、ヒゲだった。
 急に、不意に、何の脈絡もなく、隣に立っていた端守って優男の、ヒゲの生え方が気に食わなくなって、「お前のヒゲはきたねえな」、と俺は言った。思ったことはフィルター通さず口に出しちまうのが俺の性質で、それで何度も失敗をしたことはあるが、直す気はなかった。直そうとしたら、何も言えなくなっちまう。そして端守は俺を見て、「お前ってホントデリカシーねえよな」、と笑って返してくれたもんだ。大人な対応。それがまた気に障って、俺は同時に、空恐ろしさを覚えた。ついさっきまで一つも不愉快じゃあなかった奴に、目の前から消したくなるほどむかつきを感じた自分に、ぞっとしたわけだ。「まあな」、と言って、俺は端守から離れ、自分のエボ4の傍に立って、改めて場を眺めてみた。いろは坂、ランエボ、エンペラー。俺が尊敬する須藤京一って走り屋が作り、統率している、俺の所属する場。そこはなぜだか見知らぬ土地のような素っ気なさをまとっていた。俺は息が詰まるのを感じた。そんなことは今までなかった。この場所で、足元が心許なくなることも、自分が部外者のようだと感じることも、そこに集う車にもドライバーにも好感情を抱けなくなることも。
 ああ、何かやべえな、こりゃ。
 俺はそう思ってすぐ、エボ4に乗り込み、誰にも何も言わず、いろは坂から離れた。もう少し時間が経てば京一が来るのは分かっていたが、とても待っていられそうにはなかった。待っていたら、その場にいた誰かを、むかついたからという理由だけで殴っちまっていただろう。
 これはいわゆる、反抗期みてえなもんか?
 俺は自宅に帰って、床に座り、しばらくぼうっとしていた。心は穏やかで、頭は冷えていた。ただ、いろは坂のヘアピンの一つ一つを思い出すだけで、胸がむかむかとした。気心の知れた仲間たちの顔と車を思い浮かべるだけで、吐き気がした。威厳と確信に溢れた京一の顔が目の裏に浮かぶだけで、何かを殴りたくなった。
 それまで何かにつけてイライラしたって記憶が、俺にはなかった。不愉快な真似をする奴にはイライラしても、鳥の鳴き声だの道に置かれた水の入ったペットボトルだの人の足に寄ってくる猫だの、そんな単なる風景や音声や感触に一々苛立った覚えはない。元々俺はあまり両親に構われずに育ったところがある。ああだこうだと言われるのは真面目な兄貴で、世話を焼かれるのは体の弱い弟で、中一の時から近所の精肉店を手伝い始めた俺は、家に始終いるってこともほとんどなく、基本的に放置されていた。何も言われないってことが俺にとっては最高に気分が楽で、俺が家族に構われなくてイライラすることもなければ、構われてイライラすることもなく、思い返してみてもいつが自分の反抗期だったのかが分からない。覚えがないものは判断しようがない。
 だから、自分の所属する場を思い出すとただひたすらにイライラするってことが、反抗期と似たようなもんなのかどうかも、分からなかった。
 末期だな。
 何が末期なのかは分からなかったが、とにかく手のつけようはなさそうだった。俺は煙草を一本吸った。それからシャワーを浴びて下着姿でベッドに入った。寝て起きれば気分も変わるかもしれない。
 変わらなかった。何も、一つも。まあそうだろうな、と思った。何となくだ。
 俺はそれからいろは坂に行くのを止めた。イライラは消えないし、行ったらその場にいる誰かをやはり殴っちまいそうだったからだ。携帯電話にメンバーからの連絡が入っても返事をしなかった。返事をしようにも、うぜえ、という言葉しか浮かんでこなかった。そのままでは早晩家に来られそうで、空き時間は出かけることにした。
 そこで群馬に入ったのは気まぐれだ。地元で知り合いに出くわしても気分が悪くなりそうだったから、せめてよその県にまで行くことにした。それが群馬で、妙義山だった。群馬でまず思い出したのは高橋兄弟だったが、それは京一を思い出させて、案の定気分は悪くなった。そこで、俺を負かしやがったFDとバトルをしていたGT−Rを思い出した。妙義山で、俺が負かした、黒のR32。記憶に残るその遅さは、俺の気分をいくらか良くした。負かされた相手のことを考えるよりは、負かした相手のことを考える方が、優越感に浸れるもんだ。京一はそれを無駄なことだと言っていた。勝ったバトルにしか目を向けないのは、自己満足が過ぎるとか何とかと。俺は京一の言う無駄なことをしたくなっていた。それが具体的に何かは考えなかったが、ともかく勝ったバトルに目を向けたかったわけだ。
 一丁前に走り屋然とした奴らの集まってやがるその地に立って、しかし俺は、特に何も感じなかった。イラつきも、優越感も、自己満足も。ただ、息はしやすかった。ここならエボ4も走らせられると思った。そしてそれは、良いことだと。イライラせずに車を走らせられる場所は、その時の俺には貴重だった。何も考えなくて済む。
「何しに来やがった、お前」
 探す必要もないほど近くに黒の32はあって、俺がその傍まで行くと、そのドライバー(中里という、黒い髪の、老けてるような若いような、微妙に厳つい顔をした男)は、間を置くのも気に入らないように、凄んできた。俺はそれにも特に何も感じないまま、「別に、暇潰しだ」、と言った。
「暇潰し?」
「時間が潰せりゃそれで良いんだ。邪魔はしねえよ」
「邪魔?」
 他県で潰さなければならない時間が俺にあることなんて、中里には分からないらしかったが、俺はそいつに分かってほしいとも思わなかった。だから会話はそこで打ち切った。悪い気はしなかった。
 そこに集まるドライバー(ほとんどが妙義ナイトキッズとかいうチームの奴)に混じって、比較的行儀良く俺は峠道を走った。ただし比較したのはそこのチームの奴らで、そいつらの行儀は大体俺から見ても良くはなかったから、俺の走りがどれほど行儀が良かったのか、客観的には分からない。客観的。京一がよく使う言葉。それは、俺とはまったく関係のない言葉に思えた。須藤京一。その名すらも。
 一週間、ぶっ続けで俺はそこに通った。妙義山だ。仕事帰りに行き、ひとしきり走って、警察に通報されそうにない場所に車を停めて仮眠を取って、朝日に出迎えられながら家に帰り、身支度を整え、仕事に行く。それを一週間、ひたすら繰り返した。病欠者が出たから、その一週間俺は休むことなく働いて、峠を走った。
 末期だった。体も、懐も。
 そして一週間目、そろそろ戻った方がいいと、俺は確信した。その頃にはもう妙義山で俺を厄介者扱いする人間は失せていて、代わりに雑談を持ってくる奴が現れていた。走りの合間、むかつきながら笑える下衆な会話をしたのはいつ以来だったかと俺は思った。いろは坂でもそれはできていた、はずだ。段々記憶に手ごたえがなくなっていく。それと同じく、地元について何にでも感じたイライラも、手ごたえはなくなっていた。四日目くらいからだ。そこで俺は地元に戻っても良かったはずだが、妙義山に通い続けた。人を馬鹿にしやがる奴ばかりがいたが、その分気遣いが無用で、そこは結構なくらい、息がしやすかった。走りやすかった。段々と俺は、色んなものを感じ始めていた。イラつき、優越感、自己満足。それを一番に引き出したのは、俺が負かした32のドライバーだ。
「お前、いろは坂じゃ走ってねえのか?」
 五日目、そいつは俺に聞いてきた。いろは坂という単語にも特に何も感じなくなっていた俺は、そいつについては何かを感じていた。
「それがお前に関係あんのか?」
「関係はねえ、けど」
「けど、何だ」
「……気には、なるからよ」
 釈然としなさそうに、そいつは呟いた。その言い草があまりに頼りなくて、俺は笑った。「何笑ってやがる」、と俺を喧嘩を売るようににらんでくるそいつを見ると、俺はふと聞いてみたくなった。
「お前、反抗期って経験したことあるか」
 そいつは途端ににらみを止めてぽかんとして、真面目腐った風に言った。
「……まあ……人並みには……?」
「誰に聞いてんだ、てめえのことだろ」
「しょうがねえだろ、覚えがねえんだ」
 不満げに唇をとがらせたそいつを見て、俺が、ぽかんとした。
「覚えがねえ?」
「ああ」
「何でもかんでも気に障って、イライラしたような覚えがねえってか?」
「……家族とかには、ねえな。ここの奴らと話してると、そういう気分になることもあるが」
 周りを見れば、フリスビーを飛ばしている奴や、夏でもないのに花火を飛ばしている奴がいた。俺は笑っちまった。そいつはそんな俺をまた、喧嘩を売りたそうににらんできたが、笑いは止まらなかった。馬鹿馬鹿しいくせに、馬鹿にする気も起きずに笑えるってのは、久しぶりで、良い気分だった。反抗期の定義なんて、どうでもよく思えるくらいに。
「お前も家出少年じゃねえんだから、いい加減おうちに帰れよ」
 一週間目、俺が妙義山を走り尽くし、エボ4のボンネットに腰をおろして煙草を吸い終わり、もう戻ろうと考えていた時に、そう言ってきたのは、その峠で一番凶悪な雰囲気を持った奴だった(ホンダシビックEG−6に乗っている、茶髪で長髪、陰気な感じがする、庄司とかいう名前の男だ)。そいつは大体前置きせずにものを言いやがるから、話が分かりにくかった。
「あァ?」
「一週間だろ。キリ良いぜ。それ以上ここにいたけりゃ、ご家族のご了承を得てからにしとけ。ま、お前の場合はお仲間か、首長さんか?」
 鼻で笑うのが似合いすぎるほど似合う奴だった。むかつきながら、素直に、俺は言葉を返した。
「家出少年かよ」
「どっからどう見てもな。痛々しいぜ」
「鬱陶しいくらい、センチメンタル」
 そんなことを以前、京一が言っていた気がした。あれは、端守のことだったか。飼っていた鶏が獣に食われたとかで、峠にいる間中、泣いていた。今のあいつは鬱陶しいくらいセンチメンタルだな。そう言った京一の堅そうな顔、端守のヒゲ。思い出しても、気に障ることはなかった。
「懐かしき青春の傷跡、散々な消極的反乱。大人になってやることじゃ、ねえな」
 唄うように言って、そいつはまた、鼻で笑った。それにはまた、むかついた。
「お前はよくもそんな、くだらねえことばかり言えるもんだな」
「弁が立つのが取り柄でね」
 愉快そうにそいつは笑い、「褒めてねえよ」、と俺は苦笑した。そして、帰ろうとした。俺の地元に、俺の所属していた場に。それは、何かに決められていたようなタイミングだった。俺は帰ろうとしていたわけで、抵抗する気もなかったが、仮にあったとしても、そんな気は全部消えちまっていただろうし、俺には信仰心が欠けてるが、もし俺が何かを信仰していたら、その何かのおかげだと思っただろう。それくらい、その場に黒いエボ3が現れたのは、完璧なタイミングだった。
「お迎えかよ」
 庄司が、馬鹿にするように笑った。俺はそいつにガンを飛ばしてから、エボ3から降りた運転手が、俺の目の前までよどみなく歩いてくるのを見ていた。短い距離で、短い時間だった。それでも、京一(須藤京一、俺が唯一尊敬するドライバー)に変わりがないことは分かった。相変わらず頭にタオルを巻いていて、堅実な顔をしていて、動きやすそうな格好をしていた。
「よお、久しぶり」
 俺から、声をかけた。俺の前で立ち止まった京一は、小さく片方の眉を上げた。何かの感情が動いた時のサインだ。その何かは、悪いものではなさそうだった。
「そうでもねえだろ」
「そうか」
「そうだ」
 声も、変わりはない。手ごたえのなかったはずの記憶が、触れられるくらい近くに戻ってきて、俺は笑っていた。馬鹿馬鹿しいくせに、馬鹿にする気が起こらない、そんな笑いだ。
「何がおかしい?」
 京一は上げた眉を普通の時よりも下げて、少し目を細める。悪い感情の動きだ。それが分かる。分かるくらい、こいつとは長く一緒にいる。
「何でもねえよ。帰ろうぜ。こんなとこ、一週間もいる場所じゃねえ」
 俺が笑いを薄くしてそう言うと、京一は悪い感情を顔の後ろに引っ込めて、不思議そうに眉を上げ、まだ傍にいた庄司は、「こんなとことはお言葉だなァ」、とわざとらしい抑揚をつけた声で言った。俺は似たように、わざとらしく言った。
「急にフリスビー飛ばしたり、花火飛ばしたりする奴らのいるとこが、こんなとこじゃなくて何だってんだ」
 そして俺は、鼻で笑ってやった。庄司は不機嫌そうに顔をしかめ、「痛い家出少年め」、と捨て台詞を吐いた。そいつが歩いて行った先に、32のドライバーが立っていた。目が合うと、そいつは気まずそうに逸らした。小さいイラつきと、大きな優越感が、俺を笑わせる。
「おい、中里」
 呼べば、声の届く距離だった。目を逸らしたそいつが、俺を見、「何だ」、と俺よりも大きな声を出した。
「俺も、反抗期の覚えはねえんだ」
 笑ったまま、俺は言った。そいつは少し顎を上げてから、俺を真っ直ぐにらみつけ、また俺よりも大きな声を出した。
「二度とここには来るんじゃねえぞ、岩城」
 それがそいつの捨て台詞だった。中里も庄司も俺に背を向けて、俺もそいつらをそれ以上は見なかった。目の前にはまだ、京一がいる。威厳と確信に溢れた顔で、俺を見ている。
 早く、帰りてえな、と思った。こいつのとこに。
「帰ろうぜ」
 笑うのをやめて、俺は言った。京一は、俺を力強く見ながら、「ああ」、としっかり頷いた。
 あのイライラは何だったのかと思うほど、いろは坂は親しかった。仲間は気安く、車は綺麗で、コースは優しかった。むかつくことはあったが、一々すべてが気に障るってことはもう、なかった。京一は何も聞いてこなかった。俺も何も言わなかった。別に分かってほしいこともなかったからだ。他の奴らは色々と聞いてきた。俺は端守のヒゲが悪いとだけ答えた。きっかけは奴のヒゲだった。冗談めいた空気が流れて、話は進んだ。それによれば、一週間目の今日、京一に、俺の居場所を知らせる旨の電話があったらしい。相手が誰かは誰も知らなかったが、多分中里の仕掛けだろうと俺は思った。庄司も噛んでいたのかもしれない。つまり、あの完璧なタイミングは、人為的だったってわけだ。
 二度と来るな、ってか。
 勝手なことをされて、黙っているのも気に障る。俺は俺の所属する場に戻り、それを触って、確かめてから、次にはいつ行ってやろうか、と考えた。



      4






←topへ