「本当のギムレットを知らないんだね」とテリー・レノックスは言った。 |
ギムレットには早すぎる | |||||||||||||||||
レイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ(清水俊二訳)』=『ロング・グッドバイ(村上春樹訳)』に重要な小道具として登場するのが「ギムレット」。ジンベースのカクテルです。 物語の序盤、店を開けたばかりの静かなバーで、マーロウとテリー・レノックスがギムレットを飲りながら友情を育むシーンはハードボイルド史に残る名シーンの一つです。 そのなかでも私が忘れられなのが、落ちぶれた暮らしをしているレノックスにマーロウが諭すシーン。レノックスの旧友であるラスベガスの大立者を頼ればよいと言うマーロウに、レノックスはこう言って断ります。「ぼくが頼めば彼は断れない。それはフェアじゃない」。 マーロウは「彼に借りを返す機会を与えるべきだ」と反論しますが、レノックスは聞き入れません。 一見似た者同士に思える二人の、価値観や人生観の決定的な違いを表し、かつ、その後の二人の運命を暗示する名シーンだと思います。 | |||||||||||||||||
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本当のギムレットを知らないんだね | |||||||||||||||||
また、レノックスがギムレットのレシピを語るシーンも印象的でした。 いわく「本当のギムレットはジンとローズのライム・ジュースを半分ずつ、他には何も入れないんだ」。 酒にあまりこだわりの無いマーロウは軽く聞き流しますが、これを聞いていたバーテンが後にローズのライム・ジュースを仕入れてマーロウに振舞います。 その「うすい緑がかった黄色の神秘的な色」をしたギムレットに対するマーロウの感想は「やわらかい甘さとするどい強さがいっしょになっていた」というものでした。 ギムレットは錐(きり)の意であり、この鋭く突き刺さるような味も語源の一つと言われています。 ところで、テリー・レノックスが語ったこの「本当のギムレット」とは何か根拠があるのでしょうか。 過去の何かを引きずり、世捨て人のように生きるテリーが珍しく執着をみせたこの台詞には、どんな意味があるのか。 なぜ他のカクテルではなく、ギムレットだったのか。 そしてこの奇妙なレシピの根拠とは。 その答えはロンドンにありました。 | |||||||||||||||||
伝説のバーテンダー | |||||||||||||||||
カクテルの歴史には諸説がありますが、現代のカクテルの多くはアメリカで生まれ、1920年代、禁酒法の時代にアメリカのバーテンダーが世界中に散ったことにより広まったと言われています。 その中の一人がハリー・クラドック。 アメリカからロンドンに渡った彼はやがてサヴォイホテルのアメリカン・バーのチーフ・バーテンダーとなり、その独創的なアイデアでカクテル界の権威の一人と認められるようになりました。 そのハリー・クラドックが1930年に発表したのが「サヴォイ・カクテルブック」です。 レシピ集というより薀蓄やイラストを多用してカクテル文化の紹介することに主眼を置いたこの本は、現在でも世界中で読み継がれる”バーテンダーのバイブル”だそうです。そこにはギムレットのレシピが次のように記されていました。 「バローのプリマスジン1/2、ローズのライムジュース(コーディアル)1/2、ステアしてグラスへ、必要に応じて氷」 なるほど! テリー・レノックスの台詞は酔っ払いの与太話ではなかったことが分かりました。 イギリスの特産品であるジンとローズのライムジュースを使ったギムレットはハリー・クラドックも認めた正統だったのです。そして、イギリス人にとっては譲ることのできない矜持でもあったのでしょう。テリーの台詞には、彼の失ったイギリスでの日々と愛した人への想いが込められていたに違いありません。 「プロットよりもシーンを重視する」といって憚らなかったチャンドラー。 彼のディティールへのこだわりが感じられる台詞でもあったわけです。 | |||||||||||||||||
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ギムレットとジン・ライムの関係 | |||||||||||||||||
しかし、我々の知る「ギムレット」はジンとライムシロップがシェークされ、カクテルグラスに入った白濁色の辛いショート・カクテル。サヴォイのレシピは「ギムレット」ではなく、「ジン・ライム」の間違いではないかと思う方も多いはず。
ちなみに、1930年発売当時のオリジナル『サヴォイ・カクテルブック』には「ジン・ライム」または「ジン・アンド・ライム」の記述はありません。それどころか、欧米で書かれた他のカクテル本やウェブサイトでも、ジン・ライムが紹介されることはほとんど無いようです。 どうやら欧米では「ギムレット」と「ジン・ライム」を明確に区別していないようなのです。 一説によると「ジン・ライム」の発祥は日本で、ショート・カクテルとして定着していた「ギムレット」の簡易版、すなわち”和製ギムレット”として作られたとか。 進化の過程で先祖帰りを起こし、限りなくオリジナルに戻ってしまったわけです。 | |||||||||||||||||
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ローズ今昔物語 | |||||||||||||||||
19世紀末に誕生し、独自の製法で作られるローズのライムジュースは、当時、壊血病を予防すると評判になりイギリスで大ヒット。英海軍ではビタミンが不足しがちな水夫のために毎日全員に配られたそうです。 こうして隆盛を極めたローズ社も1982年にキャドバリー・シュウェップス社に吸収され、営業拠点をアメリカに移し、さらに2008年、同社から独立したドクターペッパー・スナップル・グループに譲渡されました。現在はブランド名が残るのみ。イギリスでは「コーディアルライム」、アメリカでは「ライムジュース」という商品名で販売されています。 ちなみに、かつてはローズのウェブサイトには、サヴォイと同様のレシピが「クラシック・ギムレット」または「ローズ・ギムレット」として紹介されていました。 長崎思案橋のバー・ヴィクターなど、ローズのライムジュースでこの「本当のギムレット」をつくってくれるバーが日本にも数軒存在します。 ローズのライムジュースは日本では手に入らないので、個人輸入するか、海外に住む知り合いに送ってもらう、または海外旅行の土産に頼むほかないのが共通の悩みなのだとか。 | |||||||||||||||||
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