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篤姫はどんな女性!
(平成20年NHK大河ドラマを面白く観るために作成したものです。)平成20年12月14日放映終了
篤姫の生い立ち
篤姫は、天保6年(1835)薩摩島津家分家である今泉島津家の島津忠剛の長女として生まれた。学問好きな姫であり、その才覚、器量を見込んだ藩主島津斉彬は、18歳の篤姫を養女とした後、江戸幕府の第13代将軍家定の正室として江戸城に送り込んだ。
病弱な夫を支え将軍御台所として大奥三千人を束ねました。しかし、嫁いで約1年半後に夫を亡くした篤姫は若くして未亡人となり、名を天璋院と改めました。
その後も、篤姫は、14代将軍家茂の御台所となった和宮(かずのみや)とともに大奥を束ねました。
幕末から明治維新の動乱期には、新政府軍に働きかけて江戸城の無血開城や徳川家存続に尽くしたのは良く知られいます。
家茂の死後に徳川宗家を継いだ幼い徳川家達(いえさと)の養育に力を注いだのです。
このような動乱の時代に最後まで自分の信念を貫いた、そして強く生き抜いた女性でした。

鶴丸城跡
篤姫は、島津斉彬の養女として、この鶴丸城で約二ヵ月間すごした後、京都を経て江戸へと出発した。鶴丸城は島津藩主の居城として1602年に築城された。

篤姫の呼び名は・・・
・今和泉島津家の長女として「一子(かずこ)」または「於一(おかつ)」と呼ばれていました。
・島津藩主斉彬の養女となった時に、「篤姫(あつひめ)」の名前をもらいました。
・その後、徳川家に嫁ぐため近衛家の養女となった際に「敬子(すみこ)」と呼ばれ、宮家君号として「篤君(あつぎみ)」と呼ばれた。
・夫の家定が亡くなって、名を「天璋院(てんしょういん)」と改め、その後ずっと喪服で過ごしたそうです。

ドラマから観る篤姫の身の回り品
気強い篤姫もときとして遠き故郷を懐かしむシーンがあります。錦江湾に浮かぶ桜島を描いた掛け軸を見入るシーン(涙)、何気なく身近に置かれている薩摩焼や薩摩切子など、いづれも薩摩の名産品であります。
明治維新後初めて日本がパリ万国博覧会に参加した際、薩摩として出展した別のブースにこれらの品々が並べられ好評を得たと聞いています。
なお、篤姫は江戸城に入ってからも薩摩の人から「高菜の漬物」や「薩摩のお味噌」などの差し入れがあったと聞いております。
そして、台東区上野にある寛永寺にある篤姫のお墓の横には、篤姫が好きな果物であった枇杷(びわ)の木が植えてあります。
天璋院篤姫のお墓
(一般人はお墓に入れません。案内版の写真から)





             上野寛永寺墓所
       天璋院篤姫のお墓はご門の中にあります。

その他のトピックス
 ゴンザとソウザ(江戸時代にロシアに漂流し、世界で始めて露日辞典を編纂した薩摩の青年ゴンザ)
 鈴懸け馬(「鈴懸け馬」の由来は、戦国時代にさかのぼります)

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