「あんたは彼女を幸せにできるんじゃないかと思うんだ」とトニー・リゼックは言った。 |
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「待っている」を名作たらしめる2つのキモ |
前述の通り、『待っている』のストーリーはいたってシンプルです。困っている者を助けずにはいられない、いかにもチャンドラーの描くハードボイルド・ヒーロー然とした主人公トニーの行動そのものが、この物語の魅力でありキモでもあります。 また、彼が良かれと思ってした行動が後に思わぬ悲劇を起こしてしまったというエンディングも何ともいえない切なく重い余韻を残します。 ところが、この2つのキモの部分の解釈が翻訳者によって異なり、随分違った印象になっているのです。 |
稲葉訳への幾つかの疑問 |
日本で最も多く読まれた『待っている』は東京創元社の『チャンドラー短編集』に納められた稲葉明雄訳(初出時は稲葉由紀名義)でしょう。 少し前まで、チャンドラーといえば「長篇は清水俊二、短篇は稲葉明雄」が定番でした。チャンドラーが日本でこれだけ読まれたのは、この二人の名翻訳者に負うところが大きいと思います。 それでも私は稲葉訳『待っている』に幾つかの疑問を感じずにいられませんでした。なかでも一番の疑問が、主人公トニーがイブの男(ジョニー)を逃がす場面。イブの幸せを願うのであれば、ギャングに追われている性悪のヒモと一緒に逃がすのではなく、別れさせて一人で逃がすべきだと思っていたのです。 また、最後にギャングのアルが死んだという電話を受けた時のトニーの反応も不可解でした。何故それほどショックを受けたのか、もしかしたら報復を恐れて怯えているのだろうか、と。 原文がどうであったかとは別に、「どうあって欲しいか」という観点から、私は稲葉訳にスッキリしないものを感じていました。 |
田口訳がもたらした衝撃 |
チャンドラー没後50年(本国での著作権消滅)を目前に控えた2007年、早川書房はチャンドラーの新訳に乗り出しました。長篇は村上春樹訳『ロング・グッドバイ』、短篇は田口俊樹訳『待っている』がその嚆矢でした。『マンハント』に掲載された初訳から48年、最後の清水訳からでも28年を経て発表された田口訳『待っている』でしたが、その内容はまさに衝撃的でした。そこには、我々の知っている『待っている』が正しい姿ではなかった可能性が示されていたのです。 田口訳はそれまでの4訳を踏まえ、なおざりにされていた全体の整合性や曖昧なディテールを明らかにしようとしているのが特徴です。その意欲的な試みには頭が下がるばかりですが、あまりに前の4訳との相違点が多く、「本当に正しいのか」という疑問が残りました。 下に『待っている』の進行を時系列に沿ってまとめてみました。赤字の部分が後に説明する、翻訳者の解釈の違いによって全体の印象に大きな影響を及ぼしている部分です。 田口俊樹さんはマット・スカダー物などのローレンス・ブロック作品をはじめ、多くのハードボイルド・ミステリーの翻訳を手がける翻訳界の重鎮。近年は「翻訳ミステリー大賞シンジケート」を主宰するなど、翻訳ミステリーの読者拡大にも力を注いでいます。なお、ミステリマガジン2007年4月号に掲載された田口訳『待っている』は文庫収録時に幾つかの改稿がなされました。ここでは文庫版の訳文を基に話を進めます。 |
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では、いよいよ赤字の部分を中心に5訳を比較し、『待っている』の真の姿を探ってゆきます。 |
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