「あんたは彼女を幸せにできるんじゃないかと思うんだ」とトニー・リゼックは言った。


Chapter 1
「待っている」の背景
Chapter 2
時系列でみる物語の進行
Chapter 3
5+1の「I'll be waiting」



「待っている」を名作たらしめる2つのキモ
『待っている』のストーリー自体はいたってシンプルです。理屈や損得抜きで困っている者を助けずにはいられない、いかにもチャンドラーの描くハードボイルド・ヒーロー然とした主人公トニーの行動そのものが、この物語の魅力でありキモでもあります。
また、彼が良かれと思ってした行動が後に思わぬ悲劇を起こしてしまったというエンディングも何ともいえない切なく重い余韻を残します。これもこの作品を名作たらしめている要因ではないでしょうか。

ところが、この2つのキモの部分のディティールが翻訳者によって解釈が違い、それぞれの話が随分違った印象になっているのです。

稲葉訳への幾つかの疑問
日本で最も読まれた『待っている』は東京創元社の『チャンドラー短編集』に納められた稲葉明雄訳(初出時は稲葉由紀名義)でしょう。
少し前まで、チャンドラーといえば「長篇は清水俊二、短篇は稲葉明雄」が定番でした。チャンドラーが日本でこれだけ読まれたのは、この二人の名翻訳者に負うところが大きいと思います。
それでも私は稲葉訳『待っている』に幾つかの疑問を感じずにいられませんでした。なかでも一番の疑問が、主人公トニーがイブの男(ジョニー)を逃がす場面。イブの幸せを願うのであれば、ギャングに追われている性悪のヒモと一緒に逃がすのではなく、別れさせるべきだと思っていたのです。
また、最後にギャングのアルが死んだという電話を受けた時のトニーの反応も不可解でした。何故それほどショックを受ける必要があるのかのか、もしかしたら報復を恐れて怯えているのだろうか、と。
原文がどうであったかとは別に、どうあって欲しいかという観点から、私は稲葉訳にスッキリしないものを感じていました。

田口訳という一つの解答
チャンドラー没後50年(本国での著作権消滅)を目前に控えた2007年、早川書房はチャンドラーの新訳に乗り出しました。長篇は村上春樹訳『ロング・グッドバイ』、短篇は田口俊樹訳『待っている』がその嚆矢でした。『マンハント』に掲載された初訳から48年、最後の清水訳からでも28年を経て発表された田口訳『待っている』でしたが、その内容はまさに衝撃的でした。そこには、我々の知っている『待っている』が正しい姿ではなかった可能性が示されていたのです。
田口訳はそれまでの4訳を踏まえ、なおざりにされていた全体の整合性や放置されていた曖昧な部分を詳らかにしようとしているのが特徴です。その意欲的な試みは素晴らしいの一言ですが、あまりに前の4訳との相違点が多く、驚かされたのと同時に、逆に「本当はどうなのか」という疑問も残りました。

下に『待っている』の進行を時系列に沿ってまとめてみました。赤字の部分が後に説明する、翻訳者の解釈の違いによって全体の印象に大きな影響を及ぼしている部分です。
田口俊樹さんはマット・スカダー物などのローレンス・ブロック作品をはじめ、多くのハードボイルド・ミステリーの翻訳を手がける翻訳界の重鎮。近年は「翻訳ミステリー大賞シンジケート」を主宰するなど、翻訳ミステリーの読者拡大にも力を注いでいます。なお、ミステリマガジン2007年4月号に掲載された田口訳『待っている』は文庫収録時に幾つかの改稿がなされました。ここでは文庫版の訳文を基に話を進めます。


 推定時刻  場所  場面 / そこでもたらされる情報
 平日深夜
 1:00〜1:15
 ウィンダミア・ホテル
 ロビー奥のラジオ室
 見回り中のトニーがイブを発見、話かける
 ・トニーはポーランド系のホテル探偵
 ・イブはこのホテルに5日前から逗留しており、その間一度も外出していない
 ・イブはこのホテルで別れた亭主を待っている
 ・イブはかつて、その男を裏切ったことがある
 ・トニーはイブに好意を持っており、今の状況を心配している
 1:15〜1:20  ロビーへ続くアーチ上  夜勤ポーターのカールがトニーへの伝言を持って待っていた
 ・ホテルの外にアルというヤクザ者がいて、トニーを呼んでいる
 ・アルの他にも黒い車に最低一人のヤクザ者が待機している
 ・ポーターのカールはトラブルを心配している
 1:20〜1:25  ロビー  トニーが出口へ向かいながらロビーの状況を確認
 ・稼動しているエレベーターは1基のみ
 ・夜勤のエレベーター・ボーイは新米のメキシコ人
 ・フロントには赤毛のヒゲを生やした夜勤のフロント係がいる
 1:30〜1:45  ホテルの外  トニーがアルと対面
 ・トニーとアルは旧知の仲
  → (検証1) トニーとアルの関係は?
 ・アルはトニーに、1時間以内にイブをホテル外に連れ出すよう要求
 ・アルたちはイブの別れた亭主ジョニー・ロールズを追っている
 ・ジョニーはひき逃げの罪でクエンティン刑務所に3年間服役した
 ・イブはジョニーに自首を勧めたが受け入れられずに止む無く密告したらしい
 ・ジョニーは刑期を終え、2〜7日前に出所
 ・ジョニーは服役以前に賭場から2万5千ドルを持ち逃げし、追われている
 ・トニーはイブを連れ出すことに同意
 1:50〜1:55  ラジオ室  ホテルに戻り、イブを探すトニー
 ・イブは不在だが、ソファーのクッションにはまだイブのぬくもりが残っている
 1:55〜2:00  エレベーター前
 → ロビー隅
 エレベーターを観察するトニー
 ・エレベーターは14階で止まっており、イブが部屋に戻ったと推測
 ・やがてエレベーターが降りてきて、中から夜勤ポーターのカールが出てくる
 ・カールはトニーを見て慌てる
 ・いつの間にか14Bの部屋に男がチェックインしている
 ・カールはその男に給使し、チップを受け取り、酒を飲ませてもらっていた
 ・その男は拳銃を携帯している
 ・イブはエレベーター・ボーイ(メキシコ人のゴメス)が部屋まで送った
 2:00〜2:05  帳場  投宿者名簿を確認するトニー
 ・自分に知らされていない宿泊者がいることをフロント係に質す
 ・フロント係はトニーの外出中にチェックインしたのだと主張
 ・宿泊者の記帳名はサン・ディエゴのジェームズ・ワッタースン
 2:10〜2:15  14階の廊下
 14のAの前
 イブの部屋の様子を外から探る
 ・中から物音は聞こえない
 2:15〜2:30  14のB  14のBへ入室
 ・ジェームズ・ワッタースンはジョニー・ロールズだった
 ・ジョニーは自分が追われていることを知っており、警戒している
 ・トニーはイブが隣の部屋にいることと、ヤクザ者が絡んでいることを伝える
 ・2万5千ドル略奪は濡れ衣だと話すジョニー
 ・ジョニーに作業用エレベーターで車庫に降り、車で逃げるよう促すトニー
 ・イブを連れて行ってよいかと聞くジョニー
  → (検証2) トニーはイブをどうしたかったのか?
 2:35〜2:40  シーツ部屋のある階  作業用エレベーターの扉を留めている籠を撤去
 ・作業用エレベーターが使える状態になる
 2:45〜3:10  ラジオ室  1Fに戻ったトニーがイブを発見
 ・トニーはジョニーのことをイブに伝えない
 ・やがて眠り込むイブ
 3:10〜3:15  1F
 電話ボックス
 車庫の夜勤担当者へ内線電話
 ・約30分前にジョニーが逃げたことを確認
 3:15〜3:25  帳場  トニーがジョニーの部屋代を立替えているところに電話がかかってくる
 ・電話の男は「アルからの伝言だ」と切り出す
 ・アルたちはトニーがジョニーを逃がすと予想して待ち伏せをしていた
 ・撃ち合いになって死者が出た
  → (検証3) 誰が死んだのか?
 ・呆然として電話を切るトニーに戻ってきたフロント係が謎の台詞
  → (検証4) フロント係の謎の台詞?
 3:30〜  ラジオ室  トニーが足音を忍ばせて入室
 ・まだ眠っているイブ

では、いよいよ赤字の部分を中心に5訳を比較し、『待っている』の真の姿を探ってゆきます。


Chapter 1
「待っている」の背景
Chapter 2
時系列でみる物語の進行
Chapter 3
5+1の「I'll be waiting」

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