|
◆2011年12月15日 宛所不明(茨城県在住20代) |
|
|
文庫訪問記@ 〜初めて専称寺文庫をのぞく〜
これはB5のよくあるノートに手書きで書かれていた日記だったが、モニタの青白い光を纏うのだろう。青白い青年が書いただけに、筆跡が消えてしまうことに本人は満足しているだろう。
この人物は、その年の10月11日に専称寺文庫に初めて訪れた。本屋の帰りに寄ったと言う。その本屋には一冊も目当ての本がなかった。とぼとぼ歩いて帰る途中、当館の玄関先に置いている「読んだら返却」文庫のカートが眼に入った。そこには、彼が求めている数冊が陽に晒されて積んであった。小林信彦、やまだ紫、今西錦司などの文庫があった。すでに版が切れているものもあるかもしれない。その中でも特に牧羊子と開高健が並んであるのに引きつけられた。この夫婦の本がこうして並んでいることだけでも書店では滅多に目にできない光景で、入館のきっかけには十分だったのだろう。
いつものように本を返却しにいく。館長と事務長がいる。館長と会話をする。書棚と書棚の間の狭い空間を歩きながら話を聞く。ある書店で個人から買い取った書籍の一冊に三島由紀夫の手紙が紛れ込んでいたことがあった。直筆の手紙が。それで、どうしたと思う。店主はすぐに売主に連絡して、その手紙を返却したそうだ。よい話ではないか!
こんな話を聞かせてくれたのである。
ところでこの話が出てきたのには訳があった。館長と書棚を歩いている途中、ぼくはふいに一冊の文庫を取り出した。その中に一枚のハガキが差し込まれていた。(そのハガキは、三島由紀夫のものでもなかったし、直筆のものでもない、クリーニング店からの事務長への割引を告知するいわゆるサービスクーポン券だった。)館長はそのハガキをぼくに差し出されて、それに応えて以上のお話をして下さったのだ。要所だけになってしまったけれど、そのところどころには、古書業界のこと、文学全集のこと、売買される作家の手紙類などの数々の挿話が散りばめられており、時間をかけてゆっくりと、そして疾走するように語って下さった。
一段落して、館長はクリーニング店のハガキを奥の部屋で蔵書管理をしている事務長に渡しに行った。そのやり取りは壁一枚隔てて、ぼくの目の前では行われなかったけれど、他に誰もいないのだからどうしても声が漏れてきた。
_。
こんなものどこに入ってたんだ?
ぼくは自分が手に取ったその本のタイトルをすでに忘れていることに気が付いた。思い出そうにも思い出せず、さっきまでざわめきのあった書棚が静まり返ってしまった。ぽつりぽつりと聞こえる小さな声に、自ずと耳を傾ける姿勢になった。
どこにあったのよ、コレ?
ほら、あれ。佐野眞一の『誰が「本」を殺すのか』
オッカシイナー。覚えてないよ。アレレ、もう三年前の割引券じゃないか。
ハガキを破り捨てる音が聞こえ、事務長がひょうきん顔で扉から現れた。目が合ってしまい、一つの笑いがおこり、それを挨拶のかわりにして、その日は帰ることにした。
不意に出てきた三年前のハガキ。
それにしても、その三年間ぼくは何をしていたのだろう。
様々なことがその三年間にはあった。そして、それ以上の情報をメディアは伝えた。いつでもどこでも、常にすでに、過剰に何かが起こりすぎていて、「〜以前」、「〜以後」と総括的に語られてしまい、自分の節目なんてないに等しいくらい、個人的な体験は背景に押しやられ、何がなんだかさっぱり分からず、何かは起こったけれど、何も経験していない、そんな三年間だった気がする。いや三年どころではない。ここ数年そんな感じなのだ。ましてや2011年の春以後、自分が経験したことさえも、ぐらついてしまい、これだと思うものにもいよいよ確信が持てなくなってしまった。
だから、ぼくにとって、このタイミングでの館長、事務長との出会いは非常に大きい。
対話の中で、その人たちが観ているであろう世界と、その強度をぼくは経験させてもらっている。それが節を生み出す緩やかな襞になりつつある。よい兆しを感じるのである。
他人が何気なく手にした本のタイトルを、当の本人よりも正確に、素早く記憶してしまう。
書物への尽きることのない執着がそうさせるのだ。
2011年11月23日。
その人が押さえ込んでいる鋭さを観た。
以来、その鋭さが反射させるぎらつきに惹かれ、ここ専称寺文庫に通う日々である。
おかげで、佐野氏のその一冊については、タイトルをしっかりと覚えられたけれど、近寄りがたい一冊になってしまった。どさくさにまぎれて、ぱっと借りてゆくしかあるまい。まあ、しばらくは様子をみよう。
|
◆下妻市在住Sさん |
|
|
下記の文章を寄稿してくれた下妻のSさんを紹介します。開館して一年余り、既に数十回、来館するたびに持ち込むマンガを含む本の数々、そしてその言動に掻き回され、タジタジの中高年世代の私達スタッフです。一方利用者として数万の文庫新書を前にして(今のところ専門書にまでは手を伸ばさないようですが)おどりはねてもらいたいもの。選択し、読了してくる本の数々に目を見はる”時”が続いています。会員さんの一人として私達スタッフも大切にしていきたいと思います。さらにいえば私達スタッフはあくまでも本を読んでもらいたいとの立場に終始し、出来るだけ客観的に、つまり本を仲介にして、答える立場を守らなければと思います。みだりに自分がよってたつ”常識"をふりまわしたりすることのないよう、スタッフは自戒すべきであると。
2010年10月20日 館長
本を読み世界の真実を知ろうとするほど、閃きと、反動の倦怠が麻薬物質のような刺激を私に与える。 アメリカが戦争をして得た事実がハイエナが喜ぶ屍肉だとしたらアメリカが起こす戦争は(夫婦喧嘩は犬も喰わぬという)犬同士の夫婦喧嘩であり日本の立場は屁をこくネズミのようだ。 民主と自民の低智なケンカは屁の鳴らし合いか。今の政治の視野の狭さにこそ未熟な若輩の私ですら肌で感じる。 愚鈍な人間を私は嫌うが、この世界のくだらなさは、どことなく愛しい。このろくでもない素晴らしき世界。(このセリフ缶コーヒーのCMですね)。「政治は所詮悪をなす倫理である」。私は、この考え方が好きだ。世界が平和になったとしても、全人類が涙を見ずに生きられる事はない。新たに生ずる、直面する問題は必須であり、戦争を放棄した人類が更なる苦しみを味わう事も、私は想像する。人の思考も進化と衰退を繰り返し、悟りを得るまでには、長い時を待つ事だろう。平和構築を例え実現できたとしても、その実現を果たした指導者は先の世代に、次の問題提起を、あんに投げかける事になる。解決は新たな問題への入口である。人の世の苦しみは、絶える事のない条理に基づき人民の幸福と新たなる苦悩を与える事を見越した誰にも見破れぬ偽善の政策を私は見てみたい。わざわざ悪徳を前面に、おもてだって示す人より純真な顔をして他人をいともたやすく手玉にとり、本人は知らぬうちに、翻弄されている事を悦んでいるようなえげつない人間の方が賢く狡猾で政治に徹しているのではと考える。「政治にタッチする人間は、悪魔の力と契約を結ぶ事となる」(マックスヴェーバー職業としての政治より)ー真実が逆であり、神ではなく、悪魔がこの世を支配しているとしたらなぜ世界を、滅ぼしてしまわないのか。「殺すより、盗む方が良く、盗むより、騙す方が善い」「悪徳よりは偽善だとしたら」悪魔は、ずる賢く人を苦しめ、悦んでいるのかもしれない。正しく人の悩む様を見て、気付いて欲しいといじめる、素直じゃない、いじめっ子のように。好きな子ほどいじめたい。 意地悪して、その子が頑張っちゃうと嬉しくて、もっと意地悪したくなって、それでその子が良い結果を出すとホントは自分が誰よりも喜んでいる、そんな感情をいだく私です。愛しいものほど、残酷な愛し方をする。 私は宗教を信じないが、神は全ての人を愛すると、云うのなら、真実は表裏一体、逆説パラドックスで説明すれば、全人類は残酷な愛で厳しく愛されているのだろう。
下妻市在住、鬼怒の川より来たりし雀ノ宮(すずめのみや)閣下
|
◆館長通信に記した茨城県外からのFAX |
神奈川県Tさん |
|
このたびは「寺門興隆」の記事をご縁に親しく電話においてご歓談の栄を賜りましたことを厚く感謝いたしております。
何とぞ縁を末永く保つことができますよう、よろしくお願い申し上げます。
早速ですが、「瀬戸内海を中心とする塩飽島海賊史」をご所蔵の趣、飛び上がるほどの歓びでした。
該書の閲覧なくしては、小生の当面の研究課題「近世浦法の研究」を全うできません。
徳川幕府水軍の水主労働の輩出地であるためです。
丸亀市史にも記載はあり得るとは思われますが、これも閲覧の機会がありませんでした。
教職を離れて年金生活に入って8年、資料収集には現役時代にも離島暮らしのため苦労しましたが、現在ではなおさらです。
・・・以下略・・・ |
◆筑西の知の海、専称寺文庫 |
ペンネーム:春野木乃伊 |
|
灯台下暗し、とは良く言ったものだ。歩いてわずか五分に満たない浄土宗のお寺の一角に、巨大な知の海が広がっていたのだ。
筑西市立図書館で見た、読売新聞の専称寺文庫の紹介の記事を見て、中学校の行き帰り道にあるお寺に足を運んでからはや数ヶ月
専称寺文庫は私にはなくてはならない場所になってしまったのだ。
読みたくても絶版や品切れになって手に入らない本、東京の古本屋でもなかなか見つからない本がごろごろあるではないか!
「何だ、これは?何でこんな本がこんなところにあるんだ?」、私は絶版になっているジャン・ジュネの全集や
岸田国士の全集を借りて大喜びで家路に着いたのだった。
それからというもの哲学、宗教、民俗学、教育学、そして文学と文系を中心にほとんどの分野に貴重な本が揃っている
専称寺文庫にはお世話になりっばなしである。
例えば日本教育史という、地味な分野の棚に足を運ぶと、最近の日本教育史を専攻する大学院生もちやんと読まなくなった
小林澄兄の「日本勤労教育思想史」や、私の大学院の先生だった堀松武一先生の「日本近代教育史」なども
非常にいい状態で置いてあるのである。
地方の県立図書館であっても、教育史などという地味な分野の本が揃っていることなどほとんどないから
地元のお寺の私設の図書館でこういう本を見ることは、驚きというより他にない。
これは専称寺の先代の住職と、現在の遠藤勝三住職の長年に渡る
本へのあくなき情熱と鋭い鑑定眼が生んだ貴重な知的財産であるといってよい。
現在はお寺のあちこちに分散して数万冊にわたる本を、住職の兄の隆二さんが整理し続けている。
いかなる資金的な援助もない私設の図書館の一角で、黙々と本の整理が続けられていることに大きな敬意を表するとともに
市民あるいは他の地方の人々にこの図書館の存在を知って欲しいと願わずにはいられない。
専称寺文庫は、まだ知られないまま広がっている知の大海である。
最近は気楽に読める文庫本も充実してきており、高度な航海者から、入門者まで受け入れる体勢になりつつある。
まずは気軽に住職と隆二さんのお話でも聞きにいらしてください。 |
|
|